2005.12.31

「八九三(はくさん)のブタ」盛衰記

  (目 次)

プロローグ
麻木信平のプロフィール
第1章 軍国少年期
第2章 アプレゲール世代
第3章 青春時代
第4章 新入社員時代
第5章 転勤族の子育て
第6章 サラリーマンの反乱
第7章 脱サラから転落へ
第8章 ようやく独立
第9章 楽しかった想い出
エ ピ ロ ー グ

    プ ロ ロ ー グ 
「八九三(はくさん)のブタ」とは俗にいう「おいちょカブの目」で合計すると二〇、下一桁がゼロの目は「ブタ」と呼ばれる一番弱い目である。
「おいちょカブ」がいつの頃から庶民の遊びとして定着したのか定かではないが、江戸時代の書物には出てくるようだから、その辺りから始まったのであろう。
この遊びは「花札」といわれるカードを使い、数人で遊ぶ一種の賭博(とばく)である。
勝ち・負けは手に入れた2枚または3枚の札の数を合計し、下一けたの数が「九」であれば最高の目で一番強く、下にいくほど弱くなり、ゼロでは絶対に勝つ可能性はないという遊びである。
ただし、「親のくっぴん(九一)」「子のしっぴん(四一)」という特権もあるようだが、これは一種のグランドルールのようなものであるといわれている。
どういういわれかは分からないが、同じ「ブタ」でも「八九三のブタ」は救いようのない「最悪の目」として忌(い)み嫌われ、「ヤクザ(八九三)=救いようがない遊び人」の語源になったとも伝えられている。
 なぜ、このような話を持ち出したのか?それは、この物語の主人公である「麻木信平(あさきしんぺい)」の誕生日が「昭和9年3月8日」、つまり「八・九・三」という数字が見事に並んでおり、信平の人生を振り返ると、どうしようもなく「ツキ」に見放されたと思われる場面が再三出て来るからである。

 その信平がモノ心ついた頃から、戦時体制が強化される中で軍国教育を矛盾(むじゅん)も感じずに受け入れた少年時代、学制改革のはざまで戸惑いながら青年期を迎えるのであるが、敗戦の傷跡も生々しく荒廃した社会で「いかに生きるべきか?」と悩みながらも、解決策が見出せないままに現実の社会に放り出されて、復興期、混乱期、成長期を経てバブルの崩壊から低成長時代へと、さまざまな有為転変(ういてんぺん)の中でようやく古希を迎えた今日、二人の子供(一男一女)の成長と5人の幼い孫たちとの付き合いに「無常の幸せ」を感じ、そして健康な体に恵まれて微力ながらも余暇を社会奉仕に精進できる喜びを子や孫たちに伝えておきたいという思いと併せて、同じように「ツキに見放された人生?」に「これも天命か?」という絶望感を持ち、肉親や世間様を恨みながら、悶々(もんもん)とした毎日を過ごしている方々にもご紹介して、束の間の癒(い)やしでも感じていただければ幸いであると思いながら筆を起こした。

 また、時あたかも「戦後60年」を経過し、世相は「戦前回帰」を願望するかのように右傾化の方向へと軸足を向けていく様相を呈し始めている。
戦前生まれの信平たちがたどってきた苦難の道程(みちのり)を語り、若い人たちの将来に誤りのない選択がなされることを願望しつつ。

   麻木信平のプロフィール
 麻木信平は昭和9年3月8日、山口県西部の小さな町で「麻木家の長男」として生まれた。
当時その町にはセメント工場と化学工場のほかに小さな「炭鉱」が群立(ぐんりつ)し、かなり活気のある地域であったようだ。
父はその町の化学工場に勤務する平凡な技術者であり、母は田舎町の商家・畳屋の出自(しゅつじ)で専業主婦。
父の母親、つまり信平の祖母の話によれば「麻木家」は祖母の実家であり、そのルーツは芸州・吉田(現在の広島県安芸高田市)であった。
代々毛利家の家臣であったが、関が原の戦いで中国地方の太守として君臨していた毛利公は豊臣家を支援した。
しかし、その敗北により防長二州に封じ込められた、いわゆる「国替え」に際して「番方=警護職」として選抜され、長門(ながと)国・長府(ちょうふ:現在は下関市)に移り住んだ「士族の家柄」だったそうである。
その麻木家が明治維新の動乱期に、男全員が戦死して家督(かとく)を相続する者がいなくなったために、祖母の次男であった父が麻木家と養子縁組を行って相続者になったのである。
その当時、吉田村(現在下関市吉田)に相当の田地田畑を所有していたようであるが、信平の父は「田舎(いなか)で百姓をやる気はない!」といって、それを「墓守(はかもり)」を条件に当時の小作人(こさくにん:農業従事者)に全部無償で譲渡し、相続したものは20枚を超える位牌(いはい)だけであったとのこと。
「さすが侍(さむらい)の子、いさぎよい!!」で済めばよいのだが・・・・。

 ということで、信平は武家育ちで且つ曹洞宗(そうとうしゅう)の修道女であった祖母から事あるごとに「士族の誇りと人の道」について受講する羽目になり、その影響からか人並み以上の正義心や潔癖性(けっぺきせい)と些事(さじ)にこだわらない鷹揚(おうよう)な性格に益々磨きがかかってきたようである。
このことが信平の生きざまにも影響を与え、何度か経験した人生の転機において「詰めの甘さとツキのなさ」で、ウラ目に出たことも少なくはなかった。
 昭和15年4月、信平は尋常(じんじょう)小学校に入学したが、2学年に進級する翌年から「義務教育8年制」へと学制が変わり「国民学校」と改称されて、低学年から戦時教育へと突入していくのである。
したがって教科書が変更されるのであるが、どういうわけか(多分財政難だろう)初年度は1年生用と2年生用だけが変更になった。
しかも、準備不足のためだと思うが生徒の手に渡ったのは2学期からであった。
当然のことながら翌年は3年生になるのだが、この年は3年生用と4年生用の教科書が変更されるので、またまた1学期は教科書なしである。

 昭和16年12月8日(小学2年生のとき)、真珠湾(しんじゅわん)攻撃に端を発した太平洋戦争が勃発(ぼっぱつ)し、4年生になった昭和18年に入ると戦況の悪化によって、国民学校のみならずすべての学校は勉強どころではなくなっていた。
中学生以上の学生は昭和13年4月に公布された国家総動員法によって、男女を問わずいわゆる「学徒動員」がかけられて軍需工場をはじめ人手が不足する事業場に多数送り込まれていった。
もちろん、旧制中学3年生以上は「各種軍学校」への進学が奨励されていたので多くの少年が志望して「職業軍人」への道を選択し、「特攻隊」となって戦死していった者も少なくはなかった。
そして都会の小学生はほとんどが「集団疎開(そかい)」で、友達とも別れ別れになって田舎に散っていった。
信平たち田舎の小学生は集団疎開まではしなくて済んだが、学校では「食糧増産」のために授業時間のほとんどが農作業となり、農繁期には近所の農家に「勤労奉仕」に行かされたので勉強にはならなかった。

 そして太平洋戦争が終わった昭和20年は小学6年生の夏であったがその翌年まで学制は変わらず、従って「旧制中学」の入学試験を受けて「勉強していない中学生」になった。
そこでまた「運命のいたずらか?」、なんとその翌年から再度の学制大改革である。この改革はいくらかの微調整はあったが、骨格は現在も継続している「6・3・3・4制」である。
つまり、小学校6年、中学校3年、高等学校3年、大学4年という学校制度である。
国民学校は再度小学校に、新制中学校が新設されて旧制中学校は新制高等学校に、旧制高等学校や専門学校は新制大学(旧制大学はそのまま大学)に変更された。
困ったのは「旧制中学校」に入学した信平たちとその一級上の中学生だ。中学校に入学したものの、その学校は高等学校となってしまったのである。
 中学生でもなく高校生でもないという中途半端な存在となった揚句(あげく)に決まった呼称は「高等学校併設中学生」である。高校生になるまでの「間借り」のようなものだった。
学制改革では中学生まで義務教育になったが信平たちは県立中学校に志願して入学したので、当初は義務教育の対象にはならず、授業料の納付が義務付けられていたし給食もなかった。
さすがに授業料の納付は途中から免除されたが給食は最後まで受けられなかった。
そのほかどのような差別が行われたのか?このことについては後で詳述するが、まず「男女共学」ではないということ、第2に高校2年生になるまで「下級生がいない」ということだ。
「こんな他愛(たあい)もない・・・」と思われるかも知れないが、思春期の男の子にとってこれは重大事件であった。

 このように小学校に入学すれば2年生から学制が変わり、中学校に入学すればまたまた翌年から学制が変わるということは並みの出来事ではない。
このことは信平一人だけの問題ではないのではあるが、信平にとっては「八九三の祟(たた)り?」とひがみたくもなるのだった。
というのも信平が中学3年生の夏であったが、信平の高校進学を前にして父が突然難病に見舞われて永年勤めた会社を退職せざるを得なくなったのである。
これを転機に信平の麻木一家(両親と妹3人)は生活面で塗炭(とたん)の苦しみを味わう境遇に追い込まれていったのであった。
それでも信平はなんとか高校に進学したが問題は「大学受験」である。
父の収入が激減し、母も働きたいと言い出したが、失業者が溢れているご時世(じせい)に専業主婦が働こうにも職場があるわけはない。
住む場所も社宅を出たが適当な貸家もないので、田舎の母の実家近くに小さな借家を見つけてもらって移り住むことになった。
母の実家近くに住んでおれば、父も母も畳屋の仕事を手伝っていくらかの収入を得られるだろうし、食料もいくらかは援助できるだろうという母方の祖母の気配りからであった。
そんな家計の中から大学進学の学費が捻出できるはずはないのだが、たいした学歴もなく大企業で苦労した父には「何とか大学に行ってほしい」という願望があった。
しかし家計のやりくりに苦労する母の姿を見ていると、麻木家の長男として「なんとか母を助けたい」という思いもつのり、これも「八九三のブタ」のせいか?と落ち込み思い悩む一時期であった。
さらに困った問題は、九州の製鉄工場の幹部であった父方の伯父(父の姉婿)は父と同意見で「大学は出たけれど・・・という、この就職難の時代に高校卒ではよい就職先はないのでどうしても大学に行け」という。
それも「並みの新制大学ではダメだ、九州工大に行け」という。その理由は二つあった。
一つは、九州工大は前身が「明治専門学校」という旧制の工業専門学校であり、主として八幡製鉄所(現在の新日鉄)の技術者を養成する学校であったので、ここを卒業すれば伯父が責任をもって採用してやるというのだ。
二つ目の理由は伯父の住まいが九州工大の近所にあるから、伯父の家に下宿すれば生活の面倒も見てやれるというのであった。
しかし信平は工場務めの父の姿を見ていたので、工場の技術屋としてほこりっぽい仕事をする気にはなれなかった。
一方、母方の伯父は田舎の小学校高等科を出てすぐに家業の「畳職人」からたたき上げ、下関市(山口県で最大の都市」に畳会社を興した苦労人だから「学歴無用論者」である。
「苦しい家計の中では高校にも行く必要はない」と言い張る人物であった。
したがって父母の意見も合うはずがない。
当時、信平の第一志望は外交官、第二志望がジャーナリストであったが、それを実現するためにはそれなりのレベルの大学に入学しなければならなかった。
信平は悩みに悩んでいつまでも進路を決めかねていたが、昭和26年の夏休みも終わり、あっという間に受験期の年末を迎えた。

 昭和22年度から旧制高等専門学校の入試に適用されていた「進学適性検査」が昭和24年度から新制国公立大学受験にも適用されることになり、全国一律に実施される「適性検査」を受けることが義務付けられたのだった。(一時中断されたが現在は共通一次試験からセンター試験へと名称を変えて継続中)
信平は国公立大学への進学を断念するためと、東京で受験できるという魅力に惹(ひ)かれて、12月に実施される適性検査の当日に入社試験を行うという企業の入社試験を受験することにした。
その企業ははからずも父が永年勤務していた化学工業会社の入社試験であり、かなりの難関であったが、「どうしても就職したい」とは思っていなかった信平は平常心で受験した結果、その難関を突破して合格し、本社採用の正社員として入社できることになった。

 当時は終戦直後の「黒いダイヤ=石炭」から「三白景気」といわれる時代に変わり、化学(硫安)、セメント、砂糖を造る会社はまさに「我が世の春」を謳歌(おうが)し、入社希望者も殺到して物凄い競争率であった。
信平は周囲の人たちの祝福と羨望(せんぼう)の中で、とまどいながらも「就職への道」を選択し18歳で社会人としてのスタートを切ったのである。
それから五十年有余、サラリ-マンからビジネスマンへと紆余曲折(うよきょくせつ)を重ねながら、古希を迎えるまで働き続けることができたことを、今では後悔していない。
信平のその後の軌跡(きせき)は本文に詳述するので熟読玩味(じゅくどくがんみ)をお願いする次第である。

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2006.06.09

第1章 軍国少年期

      ピッカピカの1年生 
 昭和15(西暦1940、皇紀(こうき)2600)年4月、信平は母に連れられて尋常高等小学校に入学した。
(註:皇紀とは日本紀元であり、神武天皇即位の年を紀元元年とした)
その年は、昭和6年に勃発した満州事変以来、支那(しな:中国)大陸の随所にくすぶり続けた戦火が広がり、昭和12年の盧溝橋(ろこうきょう)事件に端を発した支那事変によって、日支(日・中)間の紛争は最悪の状態になっていた。
このような長期にわたる戦時体制の中で、国内では政変が常態化し政情不安が続いていたが、小学1年生の信平にとっては理解の外であった。
戦争のお陰で生活物資も徐々に乏しさを増しつつあったが、それでも入学に必要な服装や机・ランドセルその他の文房具類は両親がなんとか取り揃えてくれた。
学校の机に座り、ノートや鉛筆・消しゴムなどを並べた時の香りはなんとも言えず、今でも鼻先に残っているようである。
1年生の信平にとって、授業に対する印象はあまり濃厚ではなかったが、近所の友達と遊ぶことが一番の楽しみであった。
特に仲の良かった友達は、男の子は薬局の伝ちゃん、呉服屋の昭ちゃん・米屋の健ちゃん。女の子はお母さんが先生の家の恵子ちゃんとお寺の芳江ちゃんだった。
信平の家は商店街の裏手に数軒の貸家があってその1軒を借りていた。恵子ちゃんの家もその中の1軒で、信平の家の先隣であった。
さらにその裏手に公園があり、芳江ちゃんが住んでいるお寺はその公園のそばにあった。
外で遊ぶときはたいていその公園かお寺の境内であった。
信平は学校の勉強はあまり楽しくはなかったが、友達と遊ぶことは楽しくてしようがなかった。
 その年は皇紀2600年を祝い、戦意の高揚をはかるために「旗行列」や「提灯(ちょうちん)行列」が頻繁(ひんぱん)に行われていた。
信平たちも昼に行われる旗行列には学校から全員が参加し、夜の提灯行列には父や母と一緒に眠い目をこすりながら参加して、帰途はたいてい父の背中であったが、その興奮状態は今も鮮やかに脳裏(のうり)に焼きついている。
  
   2年生から学制改革
 信平が小学2年生に進級した年から、学制改革によって小学校は「国民学校」と名称が変わり、教科書もすべて変更されることになるのだが、初年度は1・2年生の教科書だけが変わるので、新しい教科書が信平たち生徒の手に渡るのは2学期からであった。
1学期は先生が「ガリ版(謄写版:とうしゃばん)」でプリントしたものを配布してくれるのであるが、それがどのようなものであったか?信平は今では思い出せない。
2学期が終わりに近づき来年のお正月が間近に迫った昭和16年12月8日、日本の国運を左右する大事件が勃発した。「大東亜戦争(太平洋戦争)」である。
当日の朝6時のラジオニュースが「大日本帝国陸海空軍は本日未明、西太平洋(真珠湾)においてアメリカ合衆国と戦闘状態に入れり・・・・」と絶叫調で繰り返し叫んでいた。
信平は父にむりやり起こされて聞かされたが、当時の雑音が多いラジオ放送ではよく聞き取れない上に、それがどういうことなのか?も理解できずただ呆然としていたようだ。
「いよいよ大戦争だ!!」といった父の言葉で少しは分かったような気がしたが、登校して先生の説明を聞いてようやく「アメリカと戦争を始めたのだ…」という程度の理解はできたようだった。
真珠湾奇襲攻撃に始まった戦争の緒戦は連戦連勝だったから、信平も「日本は強いのだ!!」と思って「大本営発表、大本営発表!!」という興奮した大音声で始まるラジオのニュースが楽しみになり、待ち遠しい思いにもなっていた。
 しかし、昭和17年2月のシンガポール占領を境に戦況は徐々に悪化していくのであるが、大本営発表は相変わらず皇軍(日本軍)の勝利ばかりを一方的に報道していた。
その頃から信平の身辺からも出征兵士が次々と戦場に送られて行った。
母は9人兄弟(姉妹)であり、そのうち5人が男子だったが長兄を除く4人が赤紙(召集令状)1枚で次々と中国大陸や南方へ送られて行った。
伯父たちが出征する時は信平も両親に連れられて田舎まで見送りに行ったが、幼少の頃であったのでさしたる感動はなかった。
ただ、前日から始まる送別の宴会でおいしい料理がたくさん出てくるので、それだけが楽しみだった。
それと、従兄(弟)たちと遊べることも嬉しかった。
従兄も一人は海軍兵学校の志願兵となり、二人は海軍予科練習生となってそれぞれ出征して行った。
また、信平の家の大家さんは自転車屋さんだったが、ご主人は戦死されたのでおばさんが一人で一日中真っ黒になって店を切り盛りしていた。
おばさんはかなり気丈な人だったが、信平を自分の子供のように可愛がってくれていたから、息子の福ちゃん(7~8歳年上)も仲良く遊んでくれていた。
その上にもう一人息子さんがいたが、かなり年上だったので信平は顔を知らなかった。
その人も志願して海軍航空隊の将校だと聞いていた。
おばさんは気丈な人でもあったが、子供は二人とも男の子であり、一人はすでに軍人として「天皇陛下に捧げた」といって喜んでいた。
しかし、それは心からの喜びであったのだろうか?信平がおばさんの本当の気持ちを知ったのはそれから二年半ばかり経った頃だった。
信平の父は軍需工場の技術者だったことと体があまりがんじょう頑丈ではなかったので兵役は免除されていたが、男手の少なくなった工場では働きづめで、毎日「居残り」だ「当直」だと言って家にいる時間はほとんどなかった。
信平は内心では寂しかったが「よそのお父さんは戦地に行っているので我慢しなさい」という母の言葉を黙って聞くしかなかった。

    男女7才にして席を同じゅうせず
 日本国は古来よりれっきとした「男尊女卑」の社会であり、厳しい差別が行われていた。
それが昭和の御代(みよ)まで続いていたので、小学3年生になると教室も校舎も別々になり、男子は男子、女子は女子と別々の校舎に隔離(かくり)され、会話もままならない生活に否応なく追い込まれていった。
もちろん、恵子ちゃんや芳江ちゃんとも話すこともできないので、道ですれ違ってもお互いに知らないそぶり。
少し悲しかった。
その悲しみに追い討ちをかける事件が発生した。「転居」である。2年生を終了した春休みのある日、父が「社宅を借りることになったので引越しする」と家族に伝えた。
その当時は「家族」といっても母と5歳年下の妹、その年の2月に生まれたばかりの妹と5人だったが、妹たちは何も理解できない幼児と赤ちゃんだった。
社宅は近所の高台にあったので、転校の心配も友達との別離の心配もないのだが、恵子ちゃんと芳江ちゃんに「もう会えないのでは?」と思って、寂しさと悲しさが一度にこみ上げていた。
3年生の始業式が終わり、教室も机の席も決まったが、今年は3年生と4年生の教科書が変わるので、又しても教科書のない1学期を送ることになった。
信平は勉強が好きだとはいえない普通の子であったが、幼少のころから「無類の本好き」だったので、絵本もたくさん買ってもらっていた。
当時の絵本は幼児の頃は「桃太郎」や「猿蟹合戦」などであったが、幼稚園児の頃になると「義経の八艘とび」「忠臣蔵」「曽我兄弟のあだ討ち」など歴史上の武将の伝記ものが多く、信平の歴史好きはその頃に芽生えたのだろうと思われる。
 幼稚園に行くのはイヤだったが母に無理やりに連れて行かれたので、仕方なくついて行ったが半日で逃げ帰りその後は頑(がん)として行かなかった。母もあきらめたようだった。
小学生になると「小学1年生」「小学2年生」という定版の雑誌に変わっていったが、それも3年生になると「少年倶楽部(くらぶ)」になっていた。その頃には本屋さんの店頭からほとんどの「本」が消えていた。
だから教科書を読むことも好きで楽しかったから、教科書がない学校はつまらなかった。
担任の先生も3年生になると「男の先生」になり、授業も軍国調になっていくので生徒も必然的に男らしく強くならざるを得なくなっていた。
教科書がないので毎日の大半は運動場で体育の時間ということになるのだが、それも「軍事教練」に近い厳しい内容に変わっていった。
信平は体育が嫌いではなかったが、鉄棒や跳び箱などの器械体操はやや苦手だった。
特訓を重ねて徐々にではあるが上達していったので苦痛ではなくなったが、失敗すると容赦なく先生の鉄拳が飛んでくるので、みんな戦々恐々(せんせんきょうきょう)としていた。
しかし、それは先生の愛情のしるしであり、たいていは「寸止め」だったのでそれほど痛くはなかった。
そのころから「男子は大きくなったら軍人になって、天皇陛下の御為(おんため)に喜んで戦死するのだ」、そうすれば「軍神として靖国神社に祀(まつ)られる」。だから、いつでもお役に立てるように「体をきたえておけ」というのが先生の口癖だった。
信平たちは小さい時から否応なくそのように教え込まれていったので、親戚や近所の人たちに「信平ちゃんは大きくなったら何になりたいの?」と聞かれると決まったように「海軍大将」と答えていた。
どうして「海軍か」はよく分からなかったが、なんとなく「海軍は陸軍よりかっこいい」という意識があったようだった。
 そうこうする内にあっという間に夏休みになった。宿題は夏休み帳と絵日記と昆虫の標本づくりだったから、心理的な負担は少なかった。
だから毎日の日課は「蝉取り」と「トンボつり」、そのほか蝶々やバッタ取りなどが定版であったから、毎日朝早くから夕方日が暮れて辺りが見えなくなるまで、伝ちゃん、昭ちゃん、健ちゃんの誰かと一緒だった。夏休み帳や絵日記はまったく眼中になかった。
 信平はトンボつりが得意だった。近所の池や原っぱには銀ヤンマがたくさん飛び交っていたから面白いようによく釣れた。
まず昆虫採りの網でメスの銀ヤンマを捕らえ、1メートル半くらいの木綿糸で縛(しば)って小さな竹の棒にその糸を結(ゆ)わいつけて飛ばすと、オスのヤンマが面白いようにメスヤンマに飛びついて来るのだから簡単に釣れるのだ。ただ「糸の縛り方」にはコツを要したが…。
銀ヤンマはきれいなトンボだった。ただ、メスのヤンマは用心深いので、なかなか側に近づことが出来なくて採るのが大変だった。
蝉取りは近所に大きな木がある丘も山もなかったので、狙う相手は小さな木に止まっている「油蝉」か小さな「にいにい蝉」「つくつく法師」といった類(たぐい)の蝉だった。
これは小さな釣り竿の先に「鳥もち」をつけて、蝉が気づかないようにそっと忍び寄ってくっつけて捕っていた。
鳥もちが手にくっついて困ったが蝉取りも楽しかった。 
しかし、虫篭一杯に採ったトンボや蝉も「殺生(せっしょう)はいけないから逃がしてやりなさい」という母の一声で、渋々と空に向かって放してやる信平だった。

     未曾有の大水害に見舞われて 
 その夏休みもあと4日で終わるという昭和17年8月27日のことであった。
お昼のラジオニュースで「大型台風が西日本(山口県)に向かって北上しているから注意してください」というような報道があったから「外には出ないように」と母から注意を受けたが、それでも昭ちゃんの家に遊びに行き、午後3時頃まで遊んでいたようだった。
夕方4時か5時かは定かではないが、その頃から風が強くなりはじめ、7時前後から猛烈な暴風雨に変わっていった。
電灯もつかないので夜8時前には寝かされたが、その寝入りばなだったと思う。社宅の町内会長を勤めていた須田さんから「暴風雨と高潮で海岸の堤防が決壊するかも知れないので、即刻稲荷神社(近所の丘に会社が建てたお社)に避難してください」というおふれが回ってきた。
父は工場が心配だといって夕方から工場に詰めていたので、母が乳飲(ちのみ)子の妹を抱き、信平が上の妹の手を引いて、寝巻きを着たまま大慌てで避難した記憶が今でも強烈に残っている。
信平たちが住んでいた町の中心部は大部分が干拓地であり、その上、炭鉱の坑道が網の目のように地下を這(は)っていたので、地盤の陥没(かんぼつ)もあって「標高0メートル地帯」であった。
強烈な風雨により呼吸もままならない状態で、社殿の陰で過ごした恐怖のいっときのなんと長かったことか、思い出してもぞっとする出来事だった。
 被害は不幸にも予想通り的中して堤防は1キロメートルにわたって決壊し、町中が水浸しになったのである。
後で分かったことだが町の低地部はほとんどが軒下まで浸水したので、倒壊した家や逃げ遅れて亡くなった人たちも少なくは無かったようである。
信平たちの社宅は幸いなことに小高い場所にあったので、床上30センチ程度の浸水で大きな被害は免れた。
しかしその後が大変だった。たとえ床上30センチの浸水でも、塩水に浸(つ)かった畳や家具類は使い物にはならないので後片付けは大変だった。
さらに幸いなことは信平たちの社宅は狭いながらも2階建てであったので、とりあえず2階で寝起きすることができたが、低地に住んでいた人たちは本当に大変だったようだ。
堤防が決壊したのだから毎日2度は必ず浸入してくる海水の洗礼を受けることになるから後片付けどころではない。自分の家に住むこともできないのだ。
当時は公共的な施設もないので、自己責任で住まいを確保せざるを得ないのだが、3年生の信平には想像もできない惨状(さんじょう)だったようである。
もっと大変だったのは信平たちの学校だった。決壊した堤防の目と鼻の先にあったので、まともに高潮を被(かぶ)ってほとんど全壊状態だ。
校舎は勿論のこと頑丈に造られた講堂まで見るも無残な残骸(ざんがい)と化していた。
校舎の床は塩水に浚(さら)われて全滅、講堂は床だけではなく天井も暴風にめくられて、半分以上は床まで落ち込んでいた。
当時の講堂はどの学校も同様だったと思うが、壇上正面の奥に「奉安殿(ほうあんでん)」といって天皇・皇后両陛下の御真影(ごしんえい)と教育勅語(ちょくご)が奉納されている一室があり、校長先生は「いかなる時」にもそれを護持する責任を背わされていたので、さぞかし責任感に身を焦がされていたのではないかと心配だったが、幸いなことに御真影と教育勅語は無事だったようだ。

     朝礼と教育勅語十二の徳目 
 信平たちの国民学校は毎月1日と15日に「神社参拝」と「朝礼」が行われていた。
神社参拝は明け方の5時頃に近所の生徒が一緒になって氏神様に参拝し「戦勝祈念」を行っていたが、冬になると凍りつくような寒さに震える思いであった。
朝礼は全校生徒が講堂に集合して校長先生の訓話を聞くのであるが、その前に必ず「国歌(君が代)斉唱」に続いて「教育勅語」の朗読を聞かなければならなかった。
校長先生はいつもモーニング服を着用し白手袋をはめた手で厳(おごそ)かに、頑丈に造られた奉安殿の扉を開き、白い房の掛かった黒塗りの文箱(ふばこ)をあけて、その中から丸く巻かれた教育勅語を取り出し、奉戴(ほうたい)一礼した後に一種独特の「厳か調」で朗読が始まるのである。
朗読時間は五分ばかりの短い時間だが、その後の訓話が長いのには辟易(へきえき)させられた。
どのくらいの時間か信平にはよく分からなかったが、少なくとも30分以上はかかったと思う。
訓話は起立したままで聞くのだから、途中で倒れる子も何人かはいたようだった。
教室に戻ると担任の先生が再度、勅語の意味などを解説することになるのだが、難し過ぎて信平たちにはよく分からなかった。
 当時、国民学校の教科には「修身(しゅうしん)」という科目があり、教育勅語の「徳目(とくもく)」に沿った指導が行われていたようである。
その当時は、その意味もよく分からなかったが、今になって解説書などを読んでみると、文脈そのもは天皇中心の国家主義的色彩の強いものであるが、精神論としてはなかなか素晴らしいものもある。
教育の荒廃が指摘されて久しい現在こそ、もう一度読み返してみることが必要ではないだろうかと思う。
その内容には「十二の徳目」が盛られているので、蛇足(だそく)ながら紹介しておきたい。

   教育勅語十二の徳目(国民道徳協会出典より)
一.孝 行
 親に孝行をつくしましょう
二.友 愛
 兄弟・姉妹は仲良くしましょう
三.夫婦の和
 夫婦はいつも仲むつまじくしましょう
四.朋友(ほうゆう)の信
 友達はお互いに信じあって付き合いましょう
五.謙 遜
 自分の言動をつつしみましょう
六.博 愛 
 広くすべての人に愛の手をさしのべましょう
七.修学習業
 勉学に励み職業を身につけましょう
八.智能啓発
 知識を養い才能を伸ばしましょう
九.徳器成就
 人格の向上につとめましょう
十.公益世務(せいむ)
 広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう
十一.遵 法(じゅん ぽう)
 法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう
十二.義 勇
 正しい勇気をもって国のために真心を尽くしましょう

 * 筆者注:なかなかよく出来ているとは思いませんか?十二項以外は今でも抵抗なく受け   
        入れられるようです。否、もっと教えるべきだと思います。

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2006.06.10

生きるためには

  生きるためには
信平は遊びにうつつを抜かして宿題もほとんど手付かずで「どうしよう?」と思っていた矢先に台風のお出ましだ。お陰で宿題どころではなくなったので一面ほっとしていた。
信平は学校に行くことができないし、友達とも遊べなくなったので、毎日本を読むか2階の窓から外を見ているほかにすることがなかったが、満ち潮時になると猛烈な勢いで海水が押し寄せてくるさまを見て自然の猛威に驚愕(きょうがく)していた。
水深は台風襲来の当日と比べればかなり浅かったが、それでも低地部では毎日床上まで浸水していたようである。信平の家は小高いところにあったので、翌日からの浸水は免れることができたのだが。
 決壊した堤防の修復工事はなかなかはか捗(はか)どらなかったが、それでも年末になるとなんとか浸水だけは治まって新年を迎えることができた。
しかし校舎の後片付けや掃除の手伝いで相変わらず勉強どころではなかった。
そうこうする内に昭和18年4月に信平たちは4年生の始業式を迎えたのであるが、昨年のミッドウエイ海戦に敗北して以来、連戦連勝の戦況にも暗雲が立ち込めて悪化の一途をたどっていたようであった。
2月頃からガダルカナル島の撤収(てっしゅう)作戦が始まり、4月には山本五十六(いそろく)連合艦隊司令長官の機上戦死、5月にはアッツ島守備隊の玉砕(ぎょくさい)等が報じられてはいたが、大本営発表は相変わらず「我が皇軍は赫々(かくかく)たる戦果を挙げたり・・・・」という報道ばかりを繰り返していた。
勤勉で実直な日本国民はそのことを疑いもせず「必ず神風が吹く」と言って必勝を信じ、「欲しがりません、勝つまでは」と言いながら「滅私(めっし)奉公」に励んでいた。
 4年生になると教科書は1学期から配給されたが、戦況の悪化から食料品をはじめとする生活物資は逼迫(ひっぱく)の度をきわめていったので勉強どころではなくなった。
食料品も衣料品もすべて「配給制度」になったので、食べるものも着るものもどんどん不自由になていった。
信平も学校に着て行く服が乏(とぼ)しくなっていたので、擦り切れたところを母に繕(つくろ)ってもらって着ていた。
雨靴も傘も不足していたので雨や雪の日の通学は大変だった。
雨靴は破れた所を自転車屋のおばちゃんに、ゴム切れ(自転車のチューブだが)を貼り付けてもらってはいていたが、それも長持ちはしなかった。傘は破れた番傘が多かった。
それでもはければ良い方で、藁草履(わらぞうり)や裸足(はだし)の子も結構いた時代だった。
学校で時々服や靴を抽選で配給するのだが、くじ運が悪い信平はそれが当たった事はほとんどなかった。
これも「八九三のブタか?」と今でも思っている。
 さらに国家総動員法にもとづく「金属回収令」の発動が厳しくなり、各家庭は貴金属類は勿論のこと、鍋・釜の類まで根こそぎ回収され、残されたのは「土鍋」や「アルマイト製の薬缶巻(やかん)」だけであった。
それが飛行機や戦車の材料になるのだと聞いて、信平は「戦争に勝てるのだろうか?」と不安だった。
 母は食料品の買出しに苦労していたようだが、実家が田舎だったので祖母に頼んで米や野菜を買ってもらっていた。
30キロメートルくらい離れたところだったから、汽車に乗ってそれを受け取りにいくのだが、汽車の運行回数は少ないし乗車券も制限があったので楽ではなかったようだ。
はじめのうちは信平も母に連れられて一緒に行っていたが、非力(ひりき)の子供が持ち運ぶ量は知れていた。
それでも仕事が忙しい父親が当てにならないので否応なく信平が手伝っていた。その内に信平一人で行かされることもあり、それも日を追って多くなっていった。
 二人の幼い妹の世話もしなければならない母の事情もあったのだろうが、このような行為は「食料統制令」に触れる違法行為であり、見つかれば逮捕されるという犯罪行為であったので、母もそのあたりを考慮して子供を利用したのではないか?と今でも思っている。
考えて見ればいくら戦時中だといっても、4~5年の小学生に違法行為と知りながら手伝いを命じる母親の切羽(せっぱ)詰った気持ちはどんなものであっただろうか?母に確かめたことはないが想像を絶するものだろう。
 そのような事情もあってか、学校が方々の空き地を借り入れて芋畠(いもばたけ)をつくり、生徒は毎日農作業に動員されたのである。
畠の畝(うね)づくりから芋の苗植え、施肥、穫り入れと毎日が多忙であった。
小さな手で鍬(くわ)を持って畠の畝をつくるのだから手のひらは豆だらけだ。
また、施肥といっても現在のように化学肥料があるわけではなくすべてが人糞(じんぷん)である。
学校の便所から肥桶(こえおけ)にく汲み取って、1キロメートルもある畠まで二人掛かりで担いでいくのだから、小学4年生にとっては難行苦行だった。
 その当時の宿題は草刈り、落ち葉拾い、馬糞(ばふん)拾いなどが定版だった。
狭い町で多くの生徒が一斉に始めるのだから、草も落ち葉も馬糞もあっという間になくなってしまう。
行動半径は否が応でも広がらざるを得なくなり、ずいぶん遠くまで出かけて行ったものだが思うようには取れなかった。
それでも畠の収穫物はふかし芋や芋粥(いもがゆ)となって、生徒たちの空腹を癒(いや)してくれたのでさほど苦にはならなかった。
現在の感覚では「ひどい教育だ」といってPTAの批判の的になるのでは?と思うが、振り返って見るとそれも貴重な経験というより、生きた勉強だったように思う。

    小学生たちの「遊び道具」
 夏の遊びは海水浴やとんぼ釣りだったが、その他のシーズンは「コマ」「メンコ(パッチン)」「ビー玉(ラムネ)」「クギ倒し」などで遊ぶことが多かった。
信平はどの遊びも面白く興味を持っていたので一生懸命に練習していた。
「コマ遊び」は、いろいろなバリエーションがあったが、信平たちは「喧嘩コマ」に夢中になっていた。
信平たちの地域のコマは木製の本体上部に「鉄の輪」が巻かれており、心棒も「鉄の棒」であった。つまり、「喧嘩仕様のコマ」だったので、かなり危険ではあったが面白かった。
「喧嘩」はそれぞれがコマを回し、回っているコマをぶっつけ合って雌雄を決するのである。
信平は心棒の先にヤスリを掛け先を尖(とが)らせて倒れにくくしたり、鉄の輪を2~3枚重ねて被せ、重量を上げて攻撃力を強化していた。
友達もそれぞれ工夫して「喧嘩に強いコマ」を造っていたので、喧嘩はいつも白熱していた。
メンコやビー玉はいろいろな方法で「取り合う」ゲームで危険性のない遊びだった。
信平たちの「パッチン」は長方形の厚紙のカードに「武者絵」や「軍人の絵」が描かれたきれいなものだった。
「クギ倒し」は危険な遊びだったので、親たちはあまり「いい顔」はしなかったが、「やめなさい」とまでは言わなかった。
この遊びは5寸クギを地面に投げつけて立てるのだが、その立っているクギに相手がクギを叩きつけて倒せば勝ちで、クギは相手のものになる。
また、失敗すると「罰」として、地面に倒れたままのクギに相手が自分のクギを叩きつけて、自分のクギを立てれば「勝ち」でクギは取られるというゲームである。
信平はどのゲームも好きだったから、いろいろと工夫をしたり、一人で練習もしていたので勝つことが多かった。素朴な遊びだが楽しかった。

    勤労奉仕も始まった
 信平が5年生になった昭和19年になると戦火は益々熾烈(しれつ)になってきた。
大本営発表は相変わらず真相を覆い隠して戦勝ムードを煽(あお)っていたが、多くの国民は悪化を加速していく生活実感から相当懐疑的(かいぎてき)になっていたようである。
6月になるとアメリカ海兵隊はサイパン島に上陸を開始し、マリアナ沖海戦に敗北を喫した我国陸海軍はサイパン島奪還(だっかん)作戦を断念し、7月始めにはサイパン島守備隊は玉砕(ぎょくさい)した。
そのためかどうかは分からないが、大戦を主導した東条内閣はついに総辞職し、小磯内閣に代わったのだが、戦況は一向に好転しなかった。
そして、天王山といわれた「フィリッピン沖海戦」も勝算が立たず、12月25日になって「レイテ決戦断念」を天皇陛下に上奏して終焉(しゅうえん)したのであった。
これによって南太平洋の制空権はほぼ全面的にアメリカの手中に落ちたために、日本本土に対する空爆の頻度(ひんど)は急上昇していった。
 信平たちは5年生になっても相変わらず農作業に明け暮れる毎日であったが、働き手を軍隊にとられた農家は人手不足で困窮(こんきゅう)を極めており、そのような農家の助っ人として5~6年生が動員される事になった。
市街地には田んぼや畑は少ないので校区外の農業地域まで行かなければならないのだ。
そこにはバスも走っていない所だから途中でバスを降りて2~3キロメートルは歩かなければならないので大変だった。
田植えや稲刈りを手伝うのだが、「やさしい家」「きびしい家」といろいろあったので、友達同士で情報交換するのだが、先生は無作為(むさくい)に割り振るので「当たり外れ」の運は天に任せざるを得なかった。
しかし、おやつに出てくる「ふかし芋」やお昼の「白米の握り飯」はどこも同じであったようだ。
いつもお腹を空かしていた信平たちはそれが嬉しくて、「いつまでも農繁期が続けばいいな~」と思っていたし、「農家の子はいいな~」と羨(うらや)ましくもあった。
 その当時、非農家の食生活は今では想像も出来ないような「粗末な食事」であった。
主食の米・麦類は配給制度だったから割り当て量も日を追って少なくなり、自給自足の芋やカボチャ・菜っ葉などの「混ぜご飯」は上等な方で、雑炊(ぞうすい)や団子汁(だんごじる:すいとん)で飢えをしのいでいた状況は、とても健康な体を維持できるようなレベルではなかったのである。
学校の農作業もだんだんと大掛かりになり、海水が滲出(しんしゅつ)する沼地を田んぼに作り変えて稲を植えるということになった。
田植えをするためには田んぼの整地をしなければならない。今は耕運機を使うので比較的楽な仕事であるが、当時は馬や牛の仕事であった。
しかし、牛馬も戦地優先で農作業には回ってこなかった。農家もすべてが所有しているわけではなく、近所同士が融通(ゆうずう)しあってなんとか凌いでいたので、学校に貸してくれる余裕はなかった。
そうなれば、後は「生徒の手」を借りる以外に方法はない。5.6年生が動員されて、先生が鋤(すき)を持ち生徒が馬の代わりに綱で牽引(けんいん)するのである。それも「ハダシ」で。
田植えの頃は水も温かいのでさほど辛くはなかったが、稲刈りが終わった後の整地は晩秋にかかり土も冷たく、子供の手足にはヒビやアカギレができる頃だったので辛かった。
特に荒れ性でヒビ・アカギレの多い信平にとっては苦痛そのものであった。

     炭焼きも松根(しょうこん)堀りも理科の勉強だ
 そのうち冬が来て雪が降り始めるころになると「炭焼き」が始まるのだ。
先生の指導で生徒が炭焼き窯(がま)を作るのである。
粘土質(ねんどしつ)の土を採集し水を加えながら、強度が出るまで繰り返し繰り返しハダシでこね回すのだからこれも「ヒドイ作業」である。ヒビ・アカギレにしみこむ痛さは並大抵ではなかった。
ようやく炭焼き窯に使えるような粘土になるといよいよ「窯(かま)つくり」である。
本物の「炭焼き窯」だから形さえできればいいというものではない。焚き口から材料の木材の所まで火が均一に回らなければいけないので精密な設計図が必要である。
それを小学校の先生が製図して、生徒を指導しながら「木炭」をつくるというのだから「すごい!!」と思った。
ようやく窯が出来ると次は材料の確保だ。近所の雑木林(ぞうきばやし)の中から細身の材木を切り出して、90センチくらいの長さにそろえるのであるが、材木を切り出す班と切り揃える班との2班に分かれての作業である。
粉雪が舞い散る冬空の下ではどちらも辛い作業であった。
 窯に仕込みが終わるといよいよ火入れだ。この仕事は大変な難作業だから先生が一人で時間をかけながら慎重に行っていた。
火入れが済んだ後は焚き口の見張りである。窯の内部の温度を一定に保つように、燃料の薪(まき)や小枝を入れ続けるのだから注意と根気のいる仕事である。それも約24時間かかるというのだから大変な作業だった。
宵の口まで生徒が交代で先生の指示どおりに作業し、夜間は先生一人で徹夜(てつや)である。
「昔の先生はすごかったな~」と思うと同時に「子供たちもよく頑張ったな~」と信平は今でも感激している。
何日か熟成(じゅくせい)させてから窯を開けるのだが、「木炭はうまく出来たかな?」と皆が心配顔で見守る中を、先生が窯を壊して中を覗(のぞく)と「大成功!!」という声が返ってきたので大きな拍手が湧(わ)き起こった。みんな嬉しかった。
 炭焼きが終わり春が来て信平たちは6年生になった。春にになると「松根堀り」だ。
飛行機を飛ばす燃料が枯渇(こかつ)したので「松の脂(あぶら)」を飛行機の燃料にするそうである。
そのために、子供まで動員しなければならいとは残念な話だが、国は男手が足りないので「背に腹は変えられない」という心境だったのだろう。
山に入り大きい松、小さい松と手当たり次第に幹を倒して根っこの脂の乗った部分だけをを切り出すのだが、鋸(のこぎり)にヤニがくっついて鋸の歯が思うように滑らないので大変だった。
不要な部分は火をつけて焼却するのだが、土が熱くなるので冬眠中の蛇が目を覚ましてぞろぞろと出てくるのには閉口(へいこう)した。
信平は生まれつき蛇が大嫌いだったので、この作業だけはやりたくなかったが理科の授業だから仕方なく付き合っていた。6年生の仕事は他にもあった。
   
     あつ、泳げた!!
 信平は3年生になるまで海に行ったことがなかった。当時は学校にプールはなかったし、海水浴場も近くにはなかったので泳いだこともなかった。
3年生になって転居した社宅には同級生も数人いたが、学校の先輩や中学生もたくさんいたので新しい友達も何人かできた。
兄さんがいる同級生はいろんなことを知っていたし、いろんなことをやっていたので信平はカルチャーショックを受けたようだった。
 となりの家の裕二君は同級生であったが将棋も出来たしトランプも上手だった。また手先が器用で竹トンボや木を削って船を作ることも上手だった。
角材を舟形に削り甲板部分に軍艦式のブリッジを乗せた「模型船」に、スクリューを取り付けてゴムひもで回転させるのであるが、ゴムひもをいっぱいに捻(ねじ)ったまま池の水面に浮かべると、ゆっくりとしたスピードで進み出すのだ。見事なものだった。
信平も裕二君に習いながらいろんなことを覚え、いろんなことが出来るようになっていったが、不器用な信平には工作は苦手だった。竹とんぼはなんとかうまく出来たが舟は形にならなかった。
 信平は模型飛行機を作るのは得意だった。機体の主要部分とプロペラは荒削りではあるが木材で出来上がったものと、「竹ひご」という細く削った竹材がセットになった材料を買って加工するのである。
竹ひごをローソクの炎で曲げた部分と真っ直ぐな竹ひごを「アルミニュームの管」でつなぎ合わせて主翼と尾翼を作って組み立てるのであるが、上手に焙(あぶ)らないと竹ひごが焦げて使い物にならないので細心の注意が必要であった。
木材の機体部分とプロペラは紙ヤスリで磨いて滑らかに加工し、蝋(ろう)で磨きを掛けて出来上がりである。
船と同じようにプロペラにゴムひもを取り付けて、いっぱいに捻ったままで空に向かって放すのである。
これは前後左右のバランスがポイントだから、ここを失敗すると飛行機はダッチロールしたり墜落したりで大変であるが、上手に出来て悠々と空を飛んだ時の醍醐味(だいごみ)は格別である。
信平は近郷国民学校の「模型飛行機大会」に選抜されて出場し優勝したことがあり、それを誇りに思っていた。
でも一番夢中になったのは将棋であった。はじめの内は裕二君に何度挑戦しても勝てなかったが、そのうちにだんだんと上手になり、十回やれば3回くらいは勝てるようになった。
 裕二君の兄さんは旧制中学2年生だったが水泳が上手だったので、裕二君はいつも兄さんと一緒に海に泳ぎに行っていたようだ。
信平も母の許しを得たので裕二君に頼んで一緒に連れて行ってもらうようになった。
海といっても海水浴場と違って遠浅にはなっていないので、最初の頃は高い堤防の上から下に降りて護岸石を積み上げた石垣につかまって、足をバタバタさせるだけだった。
裕二君は「犬掻(いぬかき)」くらいは出来るので、一人で泳いでいたのが信平には羨(うらや)ましかった。
その石垣の辺りでも満潮時の深さは三メートル前後はあり、大人でも足がとどかなかったので子供には危険な所だったが、その当時は親も先生もあまり気にはしなかったようである。
 「身体を鍛えること」は国策でもあったので、すべての面で大らかだったし、少々の冒険は「心身ともに強固な少年を作る」という理念で、むしろ奨励していたようである。
それも手取り足取り教えるのではなく、「体で覚えさせる」というやり方だから習う方は大変だった。
裕二君の兄さんは信平を背中に乗せて石垣から5メートルばかり沖に出た所で、自分だけ下に潜るのだから信平は大慌(おおあわて)である。
「わ~、こわいよ~!!」「たすけて~!!」と叫びながら手をバタバタさせるのだが頭はだんだんと沈んでいくばかりだった。
頭を水の上に出そうとして立ち上がって背伸びをすれば、体はますます沈んでいくのである。
口を開けて叫んでいるのだから海水は容赦(ようしゃ)なく口に入り込み胃袋に入っていった。
塩水のなんと辛かったことか。
折を見て裕二君の兄さんが抱き上げてくれるのだが、信平は怖くてしがみつくだけであった。
 兄さんは次のようなことを教えてくれた。
1.水の上に浮かびたかったら頭を沈めること。つまり、「頭を沈めれば体は浮くように 出来ている」というのだ。  また「水を怖がらない」ことも必要だと。
2.そのためには、石垣を持ったまま足をバタバタしながら大きく息を吸って頭を水に漬(つ)けなさい。
 苦しくなったら頭を上げて、また息を大きく吸ってもぐ潜りなさい。目は開けたままでと。
信平は教えられたとおりの動作を繰り返した。同じ動作を繰り返すうちに、なんとなく水が怖くなくなってきた。
何日か経った頃、兄さんが「石垣から手を離して犬掻(いぬかき)をしてみなさい」と言ったので、信平は言われるとおりに石垣から手を離し、沖の方に向きを変えながら足で石垣を蹴って犬掻きをやってみた。
「体が浮いている!!」。
信平は嬉しかった。夢中になって海に通っているうちに、クロール、平泳ぎ、背泳ぎなど、どんどん上達して五年生になった頃には誰にも負けないくらい上達していたから、夏休みの日課はトンボ釣りよりも海水浴の方が多くなっていた。
 その当時の水泳スタイルは海水パンツなどは勿論なかった。「サポーター」という三角巾(さんかくきん)のような布切れに紐(ひも)を通しただけの簡単なものをまとっていたので、ほとんど全裸のようなものだったから全身が真っ黒になって、まさに「黒い河童(かっぱ)」であった。
こんなわけで、以前の仲良しだった一年下の伝ちゃんたちとはだんだん疎遠(そえん)になっていった。

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2006.06.11

カニやシャコがどんどん出てくる

         カニやシャコがどんどん出てくる
 水泳が上手になった信平は夏休みになると、潮時に関係なく朝食もそこそこに裕二君たちとハダシで海へ走って行くのが日課になった。
信平たちがいつも行く海は満潮時には海岸まで潮が来て3メートル程度の深さになるから、海岸の石垣から飛び込んでも泳げるのだが、干潮時にははるか沖まで干潟(ひがた)になるので泳げなくなる。
だが、このあたりは小さな河の河口になっていて、河から流れてくる水で幅が100メートルくらいの澪(みお)が何本か出来ていたので子供の腰辺りまで海水の流れがあった。
だから海水に浸かりながら遊んでいるのだが、澪の底にはハゼやカニがいるのでそれを採るのも面白かった。
カニは中くらいのワタリガニだから食べても美味しいので自然と夢中になっていった。
 また、近くに化学工場があるので小さな機帆船(きはんせん)の出入りが多く、水深が浅いと座礁(ざしょう)するので時々浚渫船(しゅんせつせん)が海底を掘ってその土砂を、海岸の石で囲った三角ダムに吐き出していた。
その土砂と一緒にカニやシャコがたくさん吐き出されるので、少し危険ではあるが信平たちはその吐き出し口のそばまで行って出てくる獲物をひろうのである。
このことを親が知ったら目をむいて怒るだろうと思うのだが、信平たちは親にはないしょにしていた。
また、朝の干潮時に三角ダムに行くと、今では絶滅種になったと言われている「カブトガニ」が行列を作って、遊んでいるのか寝ているのか定かではないが、群れをなして生活している光景に出会うのである。
その当時は別に珍しいとも思わなかったが、今考えると大変貴重なシーンを毎日のように眺めていたことになる。
信平たちはカブトガニのお尻?に突き出ているシッポ(触覚?)を手に持って振り回して遊んでいたが、それ以上の利用方法は分からなかった。
 このように長い夏休みの期間を毎日のように海で過ごしているのだから、体はますます黒くなるのだが、その当時の学校は「2学期にはだれが一番黒くなってくるかな?」という評価基準があったので、黒さでは人後に落ちない信平たちはいつも大威張(おおいばり)だった。
その頃は日本軍の制空権もほとんど機能しなくなり、アメリカ空軍の来襲はますます頻度(ひんど)を増してきたので、田舎の町にも空襲警報が再三発令されて家に帰るのだが、母の制止を振り切って海に行っていた。
今思えばずいぶん無謀なことをやっていたなと思ってゾッとしている。
 この町の化学工場はアルミの原料を造っていたので軍需工場に指定されていた。
だからアメリカに狙われて空襲があるのでは?とみんなビクビクしていたところ、ある日の真夜中に「ドカーン、ドカーン」という物凄い音で目がさめてびっくりしたが、工場を狙った4発の小型爆弾がそれて、河の対岸の松林に落ちたという話を後から聞いた。
好奇心の強い信平たちは数日後に爆弾が落とされた現場に行ってみると、半径5メートル、深さ2メートルくらいの大きな穴があいていたが、あたりの松ノ木が少し損傷を受けた程度でたいした被害はなかったようだった。
この爆弾が工場に命中していたらどんな惨事になっていたか?と思うと身震(みぶる)いする思いであった。
それ以降は敵機(B29)が上空を飛んでいる姿を見ることは日常茶飯事となり、その都度空襲警報が発せられて信平たちは家に帰っていたが、爆撃はされなかったので信平たちの町は幸いなことに無事だった。
しかし、祖母が住んでいる長府(下関市)が爆撃を受けたとの報道があったが、状況はよく分からなかった。
祖母は伯父(父の兄)夫婦と一緒に暮らしていたので、生活面の心配はなかったが、爆撃の状況がよく分からなかったので、父も心配して「長府に行って見るから信平も一緒に行こう」と言うので同行して見舞いに行った。
住んでいる所は山陽本線・長府駅から約8キロメートルばかり西にある「源平の古戦場・壇(だん)ノ浦」を見おろす高台にあり、市内でも風光明媚(ふうこうめいび)な一等地であった。
空爆のお陰で電車もバスも運行できないので、イヤでも歩いて行くことになるのだが、信平にとって8キロメートルの道程(みちのり)はかなり厳しかった。
下関市の地形は海岸に丘が迫っていて、道路は海岸沿いに続いていたので、歩いて行くのに不自由は無かった。
 山陽本線・長府駅で下車して海岸沿いに歩き始めると、関門海峡には多くの軍艦や船舶が浮かんでいたが、中には空爆でやられたのであろうと思われる何隻かの船が燃え残って煙を上げていた。
また、木造船の船板らしい残骸が白い煙を出しながら海岸を漂流している光景にも出会ったので、信平は「戦争って怖いな~」という思いに緊張していた。
壇ノ浦に到着すると、火力発電所やガス会社が空爆を受けてほとんど全壊し、燃え残りの残骸が道路にもはみ出していたので足が熱かった。
父は「熱いから気をつけろよ」と言って信平に注意を促したので、信平は恐る恐る歩いて行った。
丘の中腹にある祖母たちの家に着いたのは2時間ばかり経ったころだった。
幸いなことに被害はまったく無く全員無事だったので安心したが、祖母も伯父たちも遠くから見舞いに来てくれた信平親子に感謝し、歓待してくれたのだった。
  
     戦況は日増しに悪化していった 
 戦況は日を追って悪化しているようだった。身の回りにも父兄や縁者の「戦死の公報」を受け取って悲嘆に暮れる友人が増えてきた。
信平にとっても大事件が起きたのだ。海軍将校だった自転車屋のお兄ちゃんがフィリッピン沖海戦で戦死したのである。
後で聞いた話によると、それは日本輸送船団の航路を確保できるかどうかを賭(か)けた、日米両国にとって乗るかそ反るかの大作戦であったということだった。
昭和19年7月から年末まで続いた長期の激戦であり、この勝敗で戦争の帰趨(きすう)が決するといわれるほどの血みどろな戦いは、日米の戦力の差はいかんともしがた難く、双方が甚大(じんだい)な被害を出しながらも結局は日本軍が負けたのであった。
その戦いで自転車屋のお兄ちゃんはゼロ戦(零式戦闘機)に搭乗して敵の空母と戦ったのである。
しかし相手はアメリカが誇る難攻不落(なんこうふらく)といわれた航空母艦だ。さすがのゼロ戦も敵艦からの集中砲火を浴びて被弾(ひだん)し、思うような操縦も出来なくなったので、我がお兄ちゃんは「最後の賭け」と決心して、敵空母の心臓部である煙突を目掛けて突っ込み自爆したからたまらない。
さしもの難攻不落のアメリカ航空母艦もこれでひとたまりもなく、あえ無く撃沈(げきちん)されたのであった。
この戦果は新聞やラジオで大々的に報道されたので、多くの日本国民の知るところとなり、この戦功によって自転車屋のお兄ちゃんは「軍神」として崇(あが)められ、「靖国神社」に祀(まつ)られることとなったのである。これが「神風特攻隊」の原型になったとも言われている。
それから幾日経過したかは記憶にないが、形ばかりの「お骨(こつ)」が自転車屋のおばちゃんの所に届けられ、市を挙げての葬儀が行われた日、信平も母に連れられて葬儀に参列したが、打ちひしがれたおばちゃんの顔に喜びの笑顔はなく涙がにじんでいた。さぞ悲しかったことだろう。
信平がこんなおばちゃんの顔を見たのは初めてであり、理由は分からないがなんとなく悲しかった。
 信平たちが6年生になると、「人手不足」のために新聞配達や交通整理の仕事も舞い込んできた。
交通整理といってもそんなに交通量は多くはないのだが。
新聞配達は全員でやる必要はないので、各学級の級長・副級長その他何人かの委員に割り当てられ、毎朝50~60軒ばかり配達していた。
信平は5年生から副級長になり6年生になっても引き続き任命されていた。特別成績が良かったとは思わないが、先生の指示にはまじめに従っていたので目を掛けられたのかも知れない。
5年生の時であった。「学芸会は何がやりたいか?」と先生がみんなに聞いた時に、信平は即座に「太郎冠者(かじゃ)がいい」と言った。
先生は驚いて「太郎冠者を知っているのか?それでは教壇に上がってみんなに話をしてみなさい」と指示した。
信平の本好きは前にも紹介したが、本屋さんに本が無かった時代であるから、信平は親戚や友人の家に行くと必ず本箱を見つけて、読めそうな本があると貸して貰っていた。
父の本箱にも難しそうな本はいくらか有ったが、何とか読めたのは「ルパン全集」くらいだった。
毎月買ってもらっていた雑誌も今では少年倶楽部(くらぶ)が廃刊になり、陸軍省発行の「若桜」と海軍省発行の「海軍」という2種類だけになっていた。
それでも手当たり次第に本を読んでいたから、教科書以外の雑学は比較的豊富だった。
太郎冠者も「若桜」で得た知識であったが、教壇に上がってみんなに話して聞かせたところ拍手喝采を浴びたので、先生は「よし!太郎冠者に決めよう」と言って、「脚本・演出ほかすべて麻木に任せる」と言った。
信平は驚いた。いつもの調子で軽はずみに発言したことを後悔したのだが「あとの祭り」で、こうなったからには逃げるわけにはいかないと腹をくくった。
先生の指導を受けながら何とか狂言らしきものになったのでほっとしたが、信平の軽率さは今でも続いている。
 級長の星野君は成績優秀で3年生の時から引き続き勤めていた。信平は一度でいいから彼の成績を超えたいと思ったこともあり、努力もしてみたがムダな努力だとあきらめていた。本当に頭脳明晰(ずのうめいせき)な少年であった。
信平の家にも近かったし人柄も良かったので親友の一人であった 。
彼とは中学に入学してから高校を卒業するまで、毎年クラス替えがあったがいつも同じクラスになったので、信平がいくら頑張っても「クラス一番」にはなれなかった。
おたがいに「腐れ縁かな~?」と話していたが、信平は今になって振り返ってみると「これも八九三のブタかな~?」と思えて仕方がないのである。
 交通整理はクラス全員が4人づつの班に分かれて交代で街角に立ち、「左側通行をお願いしま~す」「交通道徳を守りましょ~」とメガホンで叫(さけ)ぶのだが、人通りの少ない街角ではあまり役に立つ仕事とは思えなかった。
 この年の12月8日(開戦記念日)に麻木家は新しい家族を迎えた。また妹が誕生したのだ。
信平の下には二才違いの弟と三才違いの妹がいたのだが、二人とも病弱で弟は二歳で、妹は一歳半でたて続けに亡くなってしまっていた。
結局、両親と信平の下に妹三人という家族構成になったのである。
戦時中は「生めよふやせよ!」という時代であったので、二人の幼児を失った母の嘆きは幼かった信平にはまだよく理解できなかったが、並大抵ではなかったのだろうと、今でも同情を禁じ得ず胸が痛むのである。特に「男の子」がもう一人欲しかったようだから。
  
    ついに敗戦のときが来た
  敗色濃い中で昭和20年の新年を迎えたが、食糧難に耐え空襲におびえながらの生活がいつまで続くのか?という不安の極致(きょくち)にありながらも、国民はそれでも「神国不滅(しんこくふめつ)」という大本営の宣伝を、藁(わら)にもすがる思いで信じながら「欲しがりません、勝つまでは」と言って耐えしの忍んでいた。
しかし国民の期待とは裏腹に戦況は悪化の一途をたどっていった。
1月のコレヒドール島要塞(ようさい)部隊の玉砕(ぎょくさい)に始まり、3月には東京大空襲、硫黄島守備隊の玉砕と続いたが、4月早々には遂に米軍が沖縄本島に上陸したのであった。
その責任を取ってか小磯内閣も総辞職し鈴木内閣に代ったが 、戦況は益々悪化して無敵を誇った「戦艦・大和」の撃沈に始まる海上特攻隊主力の全滅(ぜんめつ)によって、日本軍は実質的には「死に体」となってしまった。
その頃には米軍の重爆撃機(B29)も終日日本上空を我が物顔で悠々(ゆうゆう)と飛び交っていたが、日本空軍の反撃はなかった。
信平の家からも海の向こうに遠望できる小月(下関市)航空隊の飛行場から時折「赤とんぼ」といわれる練習機が反撃に出ていたが、あっという間に機体から火を噴きながら撃墜(げきつい)されていく光景を見ていると、子供の信平たちにも「負けたな~」という実感が湧いてくるのであった。
 8月に入ると6日に広島、9日に長崎と、立て続けに原子爆弾が投下されて莫大(ばくだい)な犠牲者を出したところで、12日に天皇陛下は「ポツダム宣言受諾」を御聖断(ごせいだん)され、14日の御前会議で「受諾」が決定されて大戦はようやく終結した。
この事は8月15日正午の玉音(ぎょくおん)放送によって広く国民に知らされたのであったが、大部分の国民は「まさか?」と半信半疑であったようだ。。
信平が玉音放送を聞いたのは新聞を配達に行った警察署だった。前日先生から「明日の配達は12時前から始めること」という指示があったので、信平はそれに従って配達をはじめ、警察署に着いたのがちょうど正午過ぎだった。
警察署では署長さん以下全署員が黙祷(もくとう)して玉音放送を聞いており、中にはすすり泣きする人もいたようであったが、信平には何の事か?事情がよく飲み込めなかった。
新聞にも「ポツダム宣言受諾」という大きな見出しが載っていたのだが、信平にはその意味も分からなかった。
その日の夜になって父から聞いて初めて「戦争に負けたのだ」ということが分かり信平は愕然(がくぜん)としたが、それでも半信半疑であった。
その翌日「全員登校」の連絡があり、生徒一同が講堂に集まって校長先生の話を聞いて、ようやく「戦争に負けたこと」を信じることができた。
校長先生は「これからは民主主義の国になるので、国民は皆平等になり個人の意見が尊重されるようになる・・・・」というような話をされたようであるが、「民主主義がどういう意味なのか?」信平たちにはよく理解できなかった。
 信平たちは子供心にも「必勝」を信じ、早く特攻隊に入ってアメリカの飛行機と戦い、軍艦を撃沈させるのだ。そして「天皇陛下の御為(おんため)に戦死して靖国神社に行くのだ」という思いしかなかったから、「これからどうすればよいのか?」見当もつかなかった。
これは全国民の共通した思いであっただろう。
特に軍隊に入って実際に戦った人たちにとっては、「これから何をして生きて行けばいいのか?」と呆然(ぼうぜん)自失(じしつ)の状態がしばらく続いたのも当然である。
教室に帰ってからも担任の先生から補足的な話を聞いたが、最後に先生は「新聞配達と交通整理は続けるように」と告げた後で、交通整理は「右側通行をお願いします」と変更することになったので間違いのないようにと念押しした。
信平は「え~!!どうして?」と質問すると、先生は「よくは分からないが、多分進駐軍の命令だろう」と答えた。

 進駐軍がやって来た!!
 その頃から進駐軍を乗せたトラックやジープが、産業道路を引っ切りなしに往来するようになった。
戦時中には「鬼畜米英(きちくべいえい)!!」と教え込まれていた国民であるから、最初の内はみんんな怖気(おじけ)づいて物陰からそっとのぞいていたが 、米兵が通りがかりにチョコレートやチュウインガムを投げてくれるので、子供たちはおどり出て拾い始めていた。
その内に子供たちは進駐軍が通るのを心待ちにするようになり、米軍が乗っているトラックを見つけると、誰に教わったのか「ギブミー・チョコレート」とか「ギブミー・チュウインガム」と叫んで手を振るようになっていた。
戦時中、英語は「敵性言語」として使用が禁止され厳重(げんじゅう)に取締りが行われていた。
ベースボールは野球、バスケットボールは篭球(ろうきゅう)というように、スポーツの分野まで徹底されていたので、英語の知識は皆無(かいむ)であったはずなのに。
 信平たちの交通整理は「右側通行をお願いしま~す」と変わったので、通行する人たちは怪訝(けげん)そうな顔で「間違いじゃ~ないのか?」とたずねるが、「間違いじゃーないよ」と答えると頭をかしげながら通り過ぎて行った。
それから10日ばかり経った頃の登校日だった。先生から「交通規則がまた変わった。今度は『人は右、車は左』だ。間違いの無いように」という指示を受けた。
信平たちは「おかしいな~」と頭をかし傾(かし)げながらも仕方なく、言われたとおりに「人は右、車は左です。お願いしま~す」と、行き交う人たちに呼びかけていたところ、「お前たちは人をバカにしちょるんじゃ~ないのか?!!」と年配のおじさんに怒鳴(どな)られたので、信平は「うそじゃ~ないよ。うそと思うなら先生に聞いてみてよ」と答えると、そのおじさんは本当に先生の所に確かめに行ったようだった。
進駐軍の都合によって振り回される「序(じょ)の口」だったと思うが、戦時中には「アメリカに占領されると皆殺しだ」とか「家や家財も皆没収(ぼっしゅう)される」とか宣伝されていたので、それがウソだと分かった信平は、「このくらいですめばしょうがないか」と妙に納得していた。

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2006.06.12

引き揚げが始まった

     引き揚げが始まった
 信平の友達の中には「朝鮮半島出身者」の子供たちも数人いた。
彼らの親たちはほとんどが炭鉱の労働者として強制的に、朝鮮半島から連行されてきたのだった。
姓名は「皇民化(こうみんか)政策(当時の朝鮮人を日本人に同化させるための強制的施策)」の一環として、昭和15年に施行された「創氏・改名令」により、日本名と同様であったので、名前だけ見れば日本人と区別がつかなかったが、顔の特徴や言葉づかいの違いはどうしょうもなく容易に識別できた。
しかしこの施策は、誇り高く特に姓名にこだわりが強いといわれる朝鮮の人たちにとっては許しがたい屈辱(くつじょく)であったようだ。
そのために、いろいろな面で差別され、学校では子供たちも心ない級友からイジメを受けていた。
信平は持ち前の正義心から「イジメはいけない」と級友をたしなめて、事あるごとに彼らを庇(かば)っていたので、彼らの親たちからも信頼を受けるようになり、時々彼らの自宅にも遊びに行っていた。
それが原因かどうかは分からないが、「信平も朝鮮人じゃーないのか?」という「噂が立っている」と級長の星野君が伝えてくれた。
そして「おれもお前と同じようなことをやってきているので気にするなよ、おれも気にしないから」と言った。
嬉しかった。
 担任の先生は5年生の時と同じであり、かなり厳しかったが内心は優しい先生だった。
この事は先生も以前から知っていて、星野君も信平も褒められたが、授業中にみんながザワザワと騒いでいる時はひどく怒られた。
「全員前へ出ろ!!」といって教壇の前に並ばせ、「級長・副級長一歩前へ!!」と言われて二人が前に出ると「全員殴(なぐ)ると手が痛いのでお前たち二人が代表だ!目をつむって歯を食いしばれ、顎(あご)を引け!」と言って、星野君と信平は思いっきり往復ビンタで殴られた。顔から火が出るほど痛かったが我慢した。
このようなケースはしばしばあったので、星野君も信平も覚悟はしていたが痛い思いをしたものだった。
先生の思いは多分「一罰百戒(いちばつひゃっかい)」を全員に示したかったのだろう。
 戦争が終わると彼らは早速姓名を元に戻して、帰国の準備を始めるようになり、年末頃から次々に祖国へと旅立って行った。
信平は「もう一生会えないだろうな~?」と思うと寂(さび)しさが込み上げてきた。
その時、子供なりに贈り物の交換をしたようだったが、それが何だったか今は記憶にない。
 一方、戦地に行っていた兵隊さんや外地で生活していた人たちの引き揚げもボツボツと始まっていた。幸いなことに信平の伯父さんや従兄たちは全員無事だったのでホッとした。 一番最初に帰って来たのは海軍兵学校に行っていた従兄の武史さんだった。
武史さんは兵学校を3月に卒業したばかりだからまだ配属先が決まらず、呉市(広島県)に残っていたようだ。
その当時の学制によると、兵学校を卒業すると直ちに「少尉」に任官して「将校」と呼ばれていた。
そして、理由はよく分からないが、終戦が決定した時点で「一階級特進」が与えられて「中尉」となっていた。
これは海軍も陸軍も同様であり「終戦中尉」と 呼ばれていたようだった。
夏休みも終わりに近づいたある日の夕方、真っ白い制服・制帽に身を固め、腰に短剣を佩(は)いた海軍の将校さんが信平の家の門を潜(くぐ)って入ってきたのである。肩には「中尉の肩章(けんしょう)」がついていた。
ちょうど外にいた信平は「誰が来たのか?」と訝(いぶか)りながら家の中に駆け込み、休日で家にいた父にこのことを告げた。
父はすぐに立ち上がって外に出るなり「武史じゃ~ないか?」と叫んで「よく帰ってきたな~!!」と言いながら手を取り合って家の中に招き入れた。
武史さんは父の姉さんの長男、つまり父の甥にあたる人だった。
信平は2~3回くらい会った記憶があるが、年齢差もあるので一緒に遊んだ記憶はなかった。むしろ、次男の貞人君とは同級生だったので時々行き来して遊んでいた 。
武史さんの家は信平の家から20kmばかり山間部に入ったところにあったので、帰る途中に立ち寄ったのだった。
かっこいい「海軍の将校さん」が来たというので近所の人たちも何人か集まって来て、物珍(ものめず)らしそうに眺めていた。
信平も夢にまで見た雄姿である。いささか得意げに微笑(ほほえ)んでいた。
 一風呂浴びて夕食が終わると武史さんは「信ちゃん映画に行こうよ」と言い出した。
当時は子供が映画を観ることは禁止されていたので、信平は「どうしようか?」という表情で父の顔を見ると、父は「戦争も終わったことだし、一緒に行って来いよ」と言ってくれたので信平は嬉々として近所の映画館に同行した。恋愛ものの時代劇映画だったようだが信平にはよく分からなかった。
戦時中の映画は軍部の検閲が厳しいので、戦争をテーマにしたものや時代劇ばかりだったが、子供は「文部省推薦」のもの以外は観ることができなかった。
 しかし武史さんは外出する前に制服の「肩章」をはずし、制帽ではなく作業帽をかぶり腰には短剣も吊らずに出て行くので、少し不満だった信平は「どうしてそんな事をするの?」と聞いてみた。
武史さんは「もう戦争が終わったので軍人ではなくなったんだ」と寂しそうに答えてくれた。信平も少し寂しかった。
後で考えてみると、武史さんが我が家より先に信平の家に寄り道した目的は「映画観賞」にあったようだ。
  
     ご法度(はっと)破りの映画館通い 
信平は映画も好きだったので文部省推薦の映画はほとんど観ていたが、それ以降は学校の目を盗んでは時々近所の映画館に行くようになった。
切符もぎりのおばさんは顔見知りだったから、「小学生はダメよ!」と笑顔でにらみながら「気をつけなさいよ」と小声で注意してくれた。入場料は確か50銭だったと思う。
その当時は小遣い銭をもらっても本屋さんには本がなく、お菓子屋さんもないのでお金の使い道がなかった。
その内に同級生が「おれも、おれも」と同調して映画館に行くようになったので、「こりゃ~大変だ」と信平は心配になった。
 それから1ヶ月くらい後だったか、信平の杞憂(きゆう)が的中して大事件が起こったのである。
ある日曜日の午後の時間帯に信平は近所の同級生・平田君を誘って映画を観にいった。
芸題は嵐寛十郎(アラカン)主演の「河童大将」だったと思う。
当時のアラカンは「鞍馬天狗」や「右門捕物帳」など多くの痛快時代劇に主演していて、子供たちにとっては神様のような人気俳優であった。
信平は講談本が大好きで「寛永三馬術」や「柳生十兵衛」などの武勇伝をよく読んでいたから、「勧善懲悪型」(かんぜんちょうあくがた)で正義に燃える筋書きの「水戸黄門」や「刺青判官(いれずみはんがん)・遠山金四郎」などの時代劇映画も大好きだった。
 古希を過ぎた今も大好きで、テレビの時代劇はほとんど観ているが、最近の時代劇は面白くないので「落ちぶれたものだ」と思って寂しくなっている。
脚本もさることながら「時代劇俳優」がいなくなったので、本当の時代劇にはなっていないからだ。
なにかの雑誌で時代劇俳優の第一人者である里見浩太朗さんが「誰でもちょんまげを載せれば、それでいいというものではない」と皮肉っていたが、そのとおりだと思う。
時代劇はその時代の文化や風俗を理解し、言葉遣いや動作にもそれを再現する能力が要求されるのであるが、最近は芸の修行もしなければ、セリフの研究もしなていない若いタレントたちが、ただ「ちょんまげ」を載せただけで主役を務めているのは、なんともやりきれない。
地上波のテレビからは「時代劇番組」がほとんど消えていったが、NHKの定番ものも民間放送のシリーズものも寿命はいくばくもないだろう。
 閑話休題(それはさておき)、上映が始まってしばらく経った頃だった。映画館の非常口が開いて外の明かりが入り、スクリーンが白っぽくなってぼやけてしまったのだ。
観客は何事か?と思って騒然(そうぜん)となったところに数人の人影が浮かび、それが小学生だと気づくのに時間はかからなかった。
誰かが中から非常口をあけて外にいた何人かを中に入れたようだった。
すぐに館内の照明が点灯して映写機が止まり2~3人の警備員が小学生のグループを外に連れ出してその場は治まったが、信平は不安で仕方がなかった。
翌日登校すると第1時限の冒頭に先生からこの問題について指摘があり、「最近学校の目を盗んで映画を観にいっている生徒がいると聞いていたが、時代が変わったので厳しいことを言うのは控えてきた」しかし「許可したわけ訳ではない」。
しかるに「集団で無銭入場を企てるとは何事かッ?!!」と物凄い権幕(けんまく)で怒鳴(どな)られた。
生徒は「悪いのは自分たち」だから、みんなうつむいて神妙に聞いていたが、先生は追っかけるように「一度でも無許可で映画を観たものは前に出ろ!」と命令すると、生徒の七割方がゾロゾロと前に出て並んだ。
信平も前に出たが級長の星野君は出てこなかった。映画は観ていなかったのだ。
先生は「星野も前に出ろ!」と言ったので星野君も前に出たところで、「麻木!一歩前へ!」という声が掛かった。
信平が前に出ると、いきなり先生の往復ビンタが飛んできた。
信平は頬から火が出るような熱さを感じたが、「身から出たサビ」だからじっと我慢した。
そして先生は「星野・麻木は級長・副級長としてみんなの不正行為を黙認したことは許しがたい大罪である」と言って「級友としての責任と自覚を持って、前に出た全員に対して一回づつ『ビンタ』を張れ!」と命令した。
星野君と信平は気が進まなかったが手分けして一人の級友の頬にビンタを張ると、「手心を加えるな!!」と先生の怒声が飛んできた。
仕方なく思いっきりビンタを張っていくうちに手がこわばって腫(は)れてきたが、我慢しながら全員のビンタ張りを終了した。
 当時の先生は生徒を信じていたが、不正行為に対しては非常に厳しかった。とりわけ級長・副級長に対しては、級友に不正行為があれば忠告し、困っていれば助言する責任を課していたからである。
だから星野君も信平もクラス内での「いじめ」については積極的に対応し、弱者、特に朝鮮人に対するいじめには「体を張って」闘っていた。
最近の教育現場では「体罰」は犯罪行為だととら捉(とら)えられているが、すべてを「悪」であるとする考え方には信平は否定的である。

       抑留者の引き揚げが始まった 
 戦後の混乱期に政治や経済・社会がどのように変貌(へんぼう)を遂げたのか、小・中学生であった信平にはよく分からないが、終戦を境にして「民族の大移動」が始まったことは間違いない。
これらの問題は信平の生き方には直接影響はなかったが、内・外人ともに想像も出来ないような艱難辛苦(かんなんしんく)と闘いながら、好むと好まざるとにかかわらず再び祖国の土を踏むことになった状況について、史書の資料に基づき概要だけでも紹介しておきたい。
 戦後の数年間、日本の統治に当たったのは連合国軍最高司令長官である「マッカーサー元帥」であり、連合国軍最高司令長官総司令部(GHQ)が設置されたのは昭和20年10月2日であったことは周知の事実であるが、外国の抑留者に対する政府の対応は非情なほどにぶく、そのことが抑留者の苦難を増幅させたことも間違いないようである。
満州からの引き揚げ体験を持つ作家の「なかにし礼」さんは新聞紙上で次のように述べている。
「日本という国家に3回見捨てられた」。「まず軍が見捨て」外務省も「居留民を日本に帰す意思はない」と言い、「引き揚げも国家ではなく民間の力だった」と。(平成17年9月5日・朝日新聞)
 長年にわたって「引揚船」として活躍した「興安丸」の船暦によると、昭和20年8月31日に引揚船に指定され、博多・仙崎(山口県)~釜山間を往復し、往航は在日韓国人の帰国輸送、復航は日本人の引揚輸送に従事したとある。
引き続き昭和25年朝鮮動乱により国連軍に傭船(ようせん)され、兵士や傷病兵の輸送に従事、昭和28年3月には中国引揚再開の帰国第一船として舞鶴港に入港、11月にはソ連引き揚げ再開により、帰国第一船として舞鶴港に入港した。
 さらに、昭和31年12月にはシベリヤ抑留者の最終便として舞鶴港に入港している。
また「舞鶴引揚記念館」の資料によると、舞鶴港は、昭和20年10月7日に引揚第一船「雲仙丸」から、昭和33年9月7日の引揚最終船「白山丸」まで13年間にわたり延べ426隻の引揚船が入港し、引揚者664,531人(軍人・軍属483,040人、一般邦人173,636人、その他7、855人)遺骨16、269柱を受け入れた。
しかし、夢見る祖国へ向かう引揚船内で59人、祖国の土を踏みながら舞鶴地方援護局内で360人の人たちが亡くなっており、着のみ着のままでたどり着いた孤児も101人いたという。
また、引揚船は在日中国人・朝鮮人の帰国船の役割も果たし、32,997人を故国へ送還した。(中国へ3,936人、朝鮮へ29,061人)となっている。
その他にも、シベリア抑留中に亡くなり心ならずも祖国の土を踏むことが出来なかった人たちや、満州の地で日本軍(関東軍)に見捨てられ、ソ連兵に陵辱(りょうじょく)され謀殺(ぼうさつ)された邦人も多数にのぼっていたようである。
戦争が終結した後にもこのように多数の生命が、理由もなく断たれていったという事実は、国民にとって「戦争がいかに残虐(ざんぎゃく)な行為であったか」を物語っている。
 当時の信平にはそのような状況はよく分からなかったが、朝鮮半島に帰って行く友人との惜別(せきべつ)の悲しみや、肉親を失った人たちの悲嘆を目(ま)のあたりにしたときの哀惜(あいせき)の情など、戦争のおぞましさを痛感させられた一時期であった。

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2006.06.13

第2章 アプレゲール世代

      勉強していない「中学生」
  戦争が終わって迎えた6年生の第2学期が始まった。
先生から最初に指示されたことは「国語の教科書を出しなさい」、「これから先生が読み上げるところを墨で消しなさい」であった。
当時教室の机には硯箱(すずりばこが)常備されており、墨をすれば直ぐに使用出来るようになっていたから、先生が読み上げるとおりに筆で塗りつぶしていった。
「天皇」「国家」「戦争」などに関する記述が全部消えてしまったので、終わってみると残った部分は10%にも満たなかった。これでは「国語」の本としては役立たずである。
次に「国史(当時は歴史とは言わなかった)の本を出しなさい」という指示で、国史の教科書を出して言われるとおりに塗りつぶしていくと、また同じように残った部分は10%程度であった。
続いて「唱歌(音楽)」「習字(書道)の手本」なども全部塗りつぶしの対象になったので、学校では勉強のしようがなかった。
従って相変わらず農作業や炭焼きに明け暮れる毎日が続き、信平は勉強しないままに新しい年(昭和21年)を迎えた。
 「お正月」の過ごし方もさして変わらず、年末の「餅つき」に始まり、定番の「お雑煮、数の子、三杯酢、煮しめ、黒豆」など、食糧難の中で母が調達し、料理してくれた「おせち料理」に舌鼓(したつづみ)を打ったものである。
その頃、男の子の遊びは「凧(たこ)揚げ、独楽(こま)回し」などが定版だったが、家庭では「双六(すごろく)、いろはかるた、百人一首、トランプ」などでつかのま間の贅沢(ぜいたく)を楽しんでいた。
2月になると中学校(旧制)の入学試験が始まるというのに教科書は無いし、どんな問題が出るのか皆目(かいもく)見当がつかないので試験勉強どころではなかった。
 このような次第で、入試の準備は何も出来ていなかったが信平は気に掛けてもいなかった。
入試の直前になったある日、突然父から「受験勉強はどうなっているのか?」と声がかかった。
本当に突然であるから信平は返答に詰まって黙っていると、父は「漢字の書き取りをやってみろ」と言って用紙と鉛筆を持ってきた。
そして20問ばかり問題を作ってくれたが信平はほとんど出来なかった。父は呆れ顔で「困ったやつだな~!!どうする?」と言いながら「仕方ないか」とつぶやいていた。 
父は学校でも勉強が出来ない事情を知っていたようだ。信平はほっとした。
それでも受験しなければならないので仕方なく受験したが、どんな問題が出たのかは記憶にない。
勉強していなかった子は信平だけではなかったようだった。
不勉強にな慣れ切っていた信平は合格発表の日も緊張感はなく、平田君達と一緒に中学校まで発表を見に行った。
掲示板に信平の受験番号が見えた。星野君や平田君など信平の親友は全員が合格したので、これからもいっしょに遊べると思うと嬉しかった。
 信平が入学することになった中学校は、教育熱心だった毛利藩の支援を受けて明治17年に「私塾」として創立され、私立中学校、市立中学校、県立中学校となった歴史のある学校だったので、山口県下の各地から生徒が集まっていた。
校風は「質実剛健」であり、生徒は厳しくしつけられていたようである。特に剣道が熱心だったから立派な剣道場があり、壁際には立派な木刀がずらりと並んでいた。
しかし、敗戦国の中学校には質実剛健の気風も立派な剣道場も立派な木刀も無用の長物(ちょうぶつ)となってしまったのである。
  
       珍妙な「中学生トラディッショナル」     
昭和21年4月、国民学校を卒業した信平は父に連れられて中学校の入学式に出かけて行った。母が体調をくずしていたので、軍需工場の戦後処理で超多忙な父が休暇を取ってくれたのだった。これは滅多(めった)にないことだったから嬉しかった。
しかし、信平は「戦争に負けた」という虚脱感(きょだつかん)が大きく、「中学生になった」という昂揚感(こうようかん)はなかった。
だから、どのような入学式であったのかということも記憶にはないし、学校もどんな入学式を行えばよいのか分からなかったのではないかとも思っている。
信平が「早く中学校に入りたい」と思った理由は、2年生を終了すると予科練(よかれん:海軍飛行予科練習生)の入試が受験できるからであり、何かを勉強したかった訳ではなかった。
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 [註] 予科練とは(解説書より抜粋)
予科練習生は優れた搭乗員としての人間形成と、鉄石の訓練をものともせず、航空兵としての実力を身につけました。
昭和12年8月14日、中国本土に孤立する居留民団(日本人)を救助するため、暗夜の荒天をついて敢行した渡洋爆撃にその初陣を飾って以来、予科練を巣立った若人たちは多くの偉勲(いくん)を重ね、太平洋戦争では名実ともに日本の航空戦力の中核となり戦ってきました。
しかし戦局は悪化し、敵が本土に迫った時、全員特別攻撃隊員となって、一機一艦必殺の体当りを決行したのです。
名も命をも惜(お)しまず何のためらいもなく、ただ国を救うことのみに無限の未来を秘めた蕾(つぼみ)の花の生涯を、祖国防衛のために捧げたのであります。
創設以来終戦までの予科練の歴史は僅か15年3カ月に過ぎませんが、祖国の繁栄と同胞の安泰を希(ねが)ふ、幾万の少年たちが全国から志願し、その予科練卒業生の8割が未曾有の国難に殉じて散華(さんげ)したのです。
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 制服は学校が斡旋(あっせん)してくれた戦時中と同じのもであったが、信平にはどうでもよいことだった。
当時の中学生(旧制)の服装は襟(えり)付きの「国民服」といわれるもので、長ズボンに巻脚絆(まききゃはん:ゲートル)を巻きつけ、帽子は戦闘帽という戦時中の出で立ちそのままであったが、物資不足の中では誰にも異論はなかったようだった。
ゲートルがずれ落ちないようにズボンに巻きつけるのはなかなか難しかったが、信平は小学生の頃から父のゲートルを借りて練習していたので、なんとか巻くことは出来たがすぐにずれ落ちてしまうので暇があれば練習していた。
しかし、子供用のゲートルがないので父のものを借りて使うと、短い子供の足には長すぎてグルグル巻きつけなければならないので短くて太い竹の子のような足になり、なんとも珍妙なスタイルであった。さすがにゲートルは間もなく廃止になった。
 教科書を入れるカバンもランドセルから「背嚢(はいのう:行軍用)」に変わった。
もともと中学生のカバンは長いベルトで肩に掛けるものであり、けっこうかっこうがよかったが物資不足でなくなったので、軍隊が使っていた不用品を斡旋してくれたようだったが、それも数量不足で抽選だった。
信平はくじに当たって支給されたのだが実物を見てがっかりした。
12~3歳の子供が屈強(くっきょう)な兵隊さんが背負(しょ)っていた大きなものを、ランドセル代わりに背負うのだから格好がいいわけはないのだ。
しかも背嚢全体が「長い馬の毛」で覆(おお)われていたので、お世辞にも「かっこいい!」とはいえない代物だった。
小柄な子が背負った姿を後ろから見ると「背嚢に足が生えて歩いている」ようで、なんとも珍妙な姿だったからみんなクスクスと笑っていた。
その上、使い勝手も悪かった。教科書を入れる部分が袋状になっていないので、うまく組み合わせてひもでくくるのだが、その作業がまた大変だった。
信平はそれを使いたくなかったが制服の一部だから仕方なく背負って通学していた。
もっとも、入学しても教科書をもらったのは1学期が終わる頃だったので、それまでは筆記用具と弁当だけが鎮座(ちんざ)していただけだった。
しかし、そのような「珍妙なトラディッショナル」も信平たちが2年生になった頃から徐々にではあったが消えていき長続きはしなかった。
 当時の旧制中学校は5年制であったが、2年を終了すると幼年学校や予科練といった陸・海軍の兵学校の受験資格が与えられ、4年を終了すると旧制高等学校や旧制大学予科、と陸・海軍士官学校の受験資格が与えられていたので、ほとんどの中学生はそのどちらかを選択していたようだった。
だから、3年生以上の生徒はかなり少なかったようであるが、軍関係の学校に行っていた先輩たちや、学校を終了して軍隊に配属されていた人達が復員して、徐々に戻って来たので学校は賑やかになっていった、というよりも「殺伐(さつばつ)としてきた」というべきかも知れないし、信平たち新入生にとって、それは大変な脅威(きょうい)になったのだった。
 戦時中は中学生も軍隊式の教育を受けていたので、先生や上級生に出会ったときは「挙手(きょしゅ)の敬礼(けいれい)」をしていたが、戦後入学した信平たちは先生から「これからは挙手の敬礼ではなく、帽子をとって目礼をすること」と言われていた。
信平たちは言われたとおりに実行すると、軍隊帰りの先輩に怒鳴られた。「挙手の敬礼はどうした!!?貴様たるんどるのか!!」と。
驚いて先生に相談すると「その必要はない」という答えが返ってきたので、信平たちはほっとして今までどおりに目礼するとまた怒鳴られた。
 そんなある日、1年生全員が剣道場に集合させられた。そこには各クラスの担任教諭と軍隊帰りと思われる髭面(ひげづら)の先輩数人が待っていた。
まず一人の先生が「全員正座」を指示したので新入生全員が床に正座すると「目をつむれ」という声がかかった。先輩の声らしい。
それから先輩の声で説教が始まった。「自分たちは戦争のために軍隊に入り、苦労しながら頑張ったが戦争に負けた。帰ってみると貴様たちのような『たるんだ後輩』と出会って不愉快である」というような話を始めたが、信平は目をつむったま聞き流していると、先輩たちが木刀を持って床を「がつん、がつん」と叩(たた)き始めたので身が縮(ちぢ)む思いがした。
その内に「ボカッ」というような鈍い音が聞こえてきた。誰かが頭を木刀で叩かれたらしい。
30分ばかりの間に数人の新入生が叩かれたところで「目を開けなさい」という先生の声が掛かったので信平はほっとして目を開いた。
その後先生が結論めいた話をしていたが信平には何のことか、その意味がよく分からなかった。
先生と先輩の間でどのような話合いがあったのかは分からないが、その後は先輩から「挙手の礼」について怒鳴られることはなかった。
 しかし、新入生の多くは特定の先輩から「いじめ」を受けていたようだった。
そんなある日、信平は星野君の家のとなりに住んでいるという「高山先輩」を紹介された。
星野君は「高山先輩は喧嘩(けんか)も強いし親切だから、いじめられた時には相談したらいい」と言ってくれたので信平は「お願いします」と高山先輩に言ってぴょこりと頭を下げた。
それからは星野君も信平も安心して通学できた。
ただ、高山先輩には時々タバコをねだられていたが、「用心棒代」だから仕方ないか?と思ってあきらめていた。
タバコは父のものを盗んでいたので、愛煙家の父には申し訳ない事をしたという思いでいっぱいだった。
当時はタバコも配給制で僅かの量しか手に入らなかったようである。
   
      最初の授業は「芋畑の整理と木剣の焼却」だ
 中学校は教科別の担任制だったので、いろいろな先生の話を聞くことができて楽しかった。
しかし若くて体格がいい先生はほとんど出征していたので、人数も少なく年配の先生が多かった。勿論、女性の先生はいなかった。
信平たちのクラス担任は小林先生という戦地で足を負傷して退役した「傷痍(しょうい)軍人」だった。
体育の担任だったが、通常の生活に不自由するほどの重症ではなかったようだ。
まだ40代の半ばだったと思うが、中国大陸を歴戦した将校さんだといわれていたので、信平たちはその先生の体験談を聞くのが楽しみだった。
 所定の教科は国文・漢文・英語・幾何・代数・生物・体育などがあり、小学生時代には聞いたこともない学科が多かったので、少し不安だったが興味も湧いてきた。
歴史や音楽はなかった。信平は、音楽はともかく「歴史」がないのが残念だった。
教科書がないので各先生が手作りのプリントで教えてくれるのだが、小学生時代に勉強していない信平たちには、ほとんど理解できないので先生もお手上げだったようである。
信平たちはいつも小林先生に「戦争の体験談」をねだるのだが、先生は「戦争の話はおおっぴらにはできないのだが・・・・」と言いながら、時々戦地での「行軍(こうぐん)」の話などしてくれていた。
しかし、広い運動場は全部芋畑になっていたので体育の授業は出来なかった。
先生は「これから体育の時間は運動場の整地を行う」といって、倉庫から鍬や手篭を取り出して整地作業をするようにと指示した。
 信平は「この広い運動場を整地するのは何日くらいかかるのだろう?」と思うと憂鬱(ゆううつ)になったが、全校の生徒が毎日行うので以外に早く終わってしまったのでほっとした。
これで「体育の授業が受けられるな」と思ったが信平の考えは甘かった。
その次に信平たちが命じられた仕事は「木剣(ぼっけん)の焼却」だった。
剣道場は長さが30メートル、幅が20メートルくらいの木造の建物で、柱も梁(はり)も大きな松の角材が使われており、かなり立派な建物であった。
その30メートルもある両壁面いっぱいに奥行き30センチくらいの切り込みがあり、そこに樫(かし)の木造りで黒光りする立派な木剣が所せま狭しと立掛けられていた。
小林先生は「これを全部運動場に持ち出して焼け」と指示したので、生徒はみんなびっくりして「もったいないよ、どうして焼くのですか?」と先生に聞いていた。
先生は「戦争が終わって武道は剣道も柔道も禁止されたのだ」といった。
占領軍(GHQ)は、日本の天皇制や国家主義にかかわる「伝統的なモノ」はすべて否定し禁止していったので、信平たちはすべての面で理解できないことが多かった。
 逆に戦時中は「敵性語」として禁止されていた英語は奨励されるようになり、NHKは替え歌「カム・カム・エブリバディ」で始まるラジオの英会話番組を放送し人気を博(はく)していた。
全国各地にも「全国ネットの英会話塾」が開設されて繁盛していたようだった。
信平も父にすすめられて近所の英会話塾に通ったが、信平にはこれも「よく分からないモノ」の一つであった。
塾の教師は進駐軍の通訳をやっている人で「一級通訳」だといっていたから、発音は非常に流暢(りゅうちょう)であり学校の先生とは比べ物にならなかった。
信平たち塾生の発音も徐々にではあるが「本物」に近づいていったので、学校の授業では「発音のギャップ」が大きくなってトラブルが発生した。
 ある日、信平が先生に指名されて「リーダー」を読まされた時だった。先生は信平の読み方を聞いて「麻木、発音が違う!」と叫んだ。
信平は「塾の先生の指導です」と答えたところ、先生は「学校では私が教えたとおりに発音しなさい」と言ったので、塾に通っていた何人かの生徒が「先生!麻木の発音の方が正しいと思います」といって一騒動持ち上がったのだった。
先生は怒って「今日の授業はこれまで!」といって教員室に帰って行ったが、しばらくして教室に戻ってきて「発音は自由にしてもよい」と言って授業を再開したので、信平たちはほっとした。
多分校長先生と相談したのだろうと思った。
この年の5月に「新憲法」が施行されて日本は「主権在民の民主主義国家になったのだ」と先生に教わったが、信平たちには、これもよく分からない話だった。
 閑話休題、木剣の話題に戻ろう。 
信平は小学生の頃から「早く剣道をやりたい」と思っていたので「竹刀(しない)」や「木剣」が欲しくてたまらなかったが、両親は「中学生になってから」といって取り合ってくれなかった。
それでも竹刀は従兄が予科練に入隊する前に「予科練に入れば支給してくれるから形見にやるよ」といって一振り呉れたので後生大事に持っていた。
だから木剣も欲しかったので先生に「一本持って帰ってもいいですか?」と聞いたが、「ダメだ」といわれた。
「どうせ焼くのなら一本くらい」と思ったのだが、それが大きな間違いであることに気づいたのはそれから間もなくのことだった。
父から「竹刀は焼くか折って捨てるか、どっちでもいいから早く始末(しまつ)しなさい」と言われたので理由を聞くと、小林先生の言ったことと同じだった。
信平にはまだその理由がよく飲み込めなかったが仕方なく焼き捨てた。惜しいと思った。

        教科書が出来た 
 一学期も終わりに近づいたころ待望の教科書が届いたが、異様な形をしているのでみんな驚いた。
新聞紙くらいの大きさの用紙に約8ページ分が表裏両面にベタ刷りされているものだった。
「こりゃ~何だ?」と生徒たちがざわついていると、先生が「家に持ち帰って小刀(こがたな:ナイフ)で切り、ページ順にと綴(と)じなさい」と指示した。
手先が不器用な信平には荷が重かったが、母にも手伝ってもらってなんとか「本」の形ができたのでほっとした。
教科書ができるまでの当座の間に合わせだったが、ようやく授業が始まった。
始まってみると、国文や英語などはいくらか身近に聞いたこともあるが、今までに聞いたこともない幾何・代数・漢文などについては、まったく面食らった。
 しかし、当時の先生方はそれぞれの専門分野については造詣(ぞうけい)が深かったので、講義の進め方も上手だったように思うし、大変情熱的で厳しかった。
特に幾何の中川先生は情熱的だった。かなり年配の方だったが兵役で足を負傷したとかで、片足が悪くビッコを引いていたのが印象的だった。
どういう理由(わけ)か「パッキン」というニックネームがついていた。
熱心さのあまりに生徒がヘマをやると白墨(はくぼく:チョーク)が飛んできたり、二度目、三度目になると木製の大きなコンパスでひっぱたかれていたので、みんな戦々恐々としていた。
 英語の村上先生は慶応大学・英文科出身だけに発音もなめらかで英語らしかったが、マーク・トウエンの詩が好きでよく朗読してくれていた。
その中に「when I go・・・」というくだりを「ウエンナイゴー・・・」と発音していたのが印象的だったからか、先輩たちが「ウエンナイ」というニックネームをつけたらしく、信平たちも「ウエンナイ・ウエンナイ」とニックネームで呼んでいた。
後で気がついたことだが、英語の発音はやはり「ジャパニーズ・イングリッシュ」の域を出てはいなかったようだった。(先述のエピソードのとおり)
 漢文の伊藤先生はいつも眠そうな顔をしていたので「釈迦」(しゃか)というニックネームがついていた。
信平は漢文と出会ったのは初めてだったので、どのように勉強すればよいのか見当もつかなかったが、「釈迦先生」は「漢文の基本は『オニ』と会えば返れ」だから、よく覚えておくように」と再三教えていた。
つまり、「オ」や「ニ」という助詞が出たら「前の節」に戻ることが基本だということだった。信平は漢文を読むのは苦手だったが、この「基本」だけは今でも覚えている。
このように、国民学校とはあらゆる面で違った雰囲気(ふんいき)を感じて、何となく「中学生」になったような気がしていた。
 入試に不合格になった友人たちは「どうしているかな?」と信平は時々思っていたが、
その当時の義務教育は「8年制」だったから彼らは国民学校の「高等科」で勉強しているはずだった。
しかし、その時代には経済的な理由で旧制中学校への進学率はまだまだ低く、子供たちは「受験戦争」など知らなかった。
    
      学校制度が大きく変わった
 信平たちが中学1年生を終了した昭和22年3月31日に公布、翌日に施行された教育基本法により、学校制度が大きく変更された。
小学校6年制は変わらないが中学校5年制が3年制となって義務教育になり義務教育期間が一年延長された。
従って旧制中学校は3年制の高等学校に、旧制高等学校や専門学校は4年制の新制大学として旧制大学と同列に格上げされたのであった。
この新制度は、いわゆる6・3・3・4制といわれ、その骨子は現在も変わっていないが、信平たちにとっては晴天の霹靂(へきれき)だった。
 4月から中学2年生に進級すると下級生も入ってくるので、楽しみにしていたのだが、1学年下の生徒は全員が新制中学校に入学することになったのだ。校舎は取りあえず小学校高等科の校舎を使うという。
このような大改革が年度末の3月31日に公布され翌日に施行されたのである。
現在では想像も出来ないようなことであるが、当時のGHQ総司令官は「マッカーサー元帥」であり、その権力はオールマイティであった。
 信平たちはこれからどうなるのか不安でいっぱいだったので、先生に聞いてみた。
先生にも詳しいことは分からないようであったが、次のように説明してくれた。
「新制中学校の3年間は義務教育となったので、小学校を卒業すると全員が入学しなければならない。
しかし君たちは旧制中学校を受験して当校に入学したのでそのまま進級し、3年を終了すると義務教育期間が終わるので、進学しなくてもよいのであるが、希望者は高等学校に進学してもよい。
その場合は入試は免除になる。新制中学校からの進学希望者は入試を受けてもらうことになる」と。
 信平たちは分かったような分からないような、なんとなく複雑な気持ちだったが「自分たちは中学生と呼ばれるのか高校生と呼ばれるのか?」という疑問もあったので先生に質問すると「先生にもよく分からないので校長先生に聞いてみる」と言って出て行った。
しばらく経って帰ってきた先生は「この学校は新制高等学校として存続するが、君たちが3年生を卒業するまで『新制高等学校併設中学校』となるので、君たちはやはり『中学生』だ」と説明してくれた。
信平はなんとなく納得したが、そのことが理解できた訳ではなかった。
その内に新制中学校に関する情報が少しづつ入ってくるようになった。「男女共学だ」とか「給食がある」「義務教育だから授業料は要らない」だとか身近な情報であったが、信平たちは不満であった。
「自分たちは入学試験に合格して入ってきたというだけで、高校2年生になるまで後輩がいない、男女共学でもない、給食もない、その上授業料まで取られるとは」と、自分たちの不運を嘆(なげ)くのであったが、しばらくして授業料は免除になったので、いくらか不満がやわらいだ。
 しかし信平にしてみれば、中学校の入試に合格したばかりに、このような差別を受けることの不満がなかなか解消できなかった。
入試に不合格となり不本意ながら高等科に進学した同級生は、2年生から卒業するまで「最上級生」であり、信平たちは高校2年生になるまで「最下級生」に甘んじなければならないのだ。
しかも向こうは男女共学、こちらは男子のみの殺伐とした学園生活である。思春期の中学生にとってはなんとも割り切れない問題であった。
 この問題は昭和24年4月に形式的には解消された。というのは、併設中学生は24年3月に全員が卒業するので、併設中学校は自然消滅的に廃校となるからである。
これを契機に信平たちの高等学校は同じ市内にある「女子商業学校」と統合されて男女共学の新制高等学校になったのだ。
しかし、これは本当に「形式的」であり、校舎はこれまでどおり別々の校舎に通学するのだから、男女が机を並べて授業を受けることにはならなかった。
「ここまでわり割を食うとは?」、(これも八九三のブタ?)信平の心は暫くの間おだ穏やかではなかった。

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2006.06.14

猛烈なインフレに国民生活は?

     猛烈なインフレに国民生活は?  
 戦争が終わり民主主義の国になっても、信平たちの日常生活はほとんど変わらなかった。
ただ、敵機の空襲がなくなったことで、灯火管制の必要もなくなり安心して暮らせるようになっていた。
しかし食糧難は依然として続き、外地からの復員や引き揚げによって国内の人口が増える分だけ悪くなっていったようだった。
アメリカやユニセフなどからの支援物資はかなり入ってきたようだが、それでも日本人の胃袋はいつもからからっぽだった。
米や麦は相変わらず配給制度が続いていたが、割当量は戦時中よりも減っていたようだった。
その代わりにというのだろうが、アメリカから入ってくる「乾燥りんご」や「ピーナッツバター」「砂糖」などが主食として配給されるのだから大変である。
乾燥りんごやピーナッツバターは美味しかったが、米や麦の代わりにはならなかった。
信平はピーナッツバターを一口なめてみて驚いた。「アメリカにはこんなに美味しいものがあるのか?」と思って、母の目を盗んで腹いっぱい食べたところ、覿面(てきめん)ひどい下痢(げり)にかかってしまった。
母は育ち盛りの信平を頭に3人の幼児を抱えて、食料の調達に躍起となっていたようであったが、食料品をはじめ物価は毎日のように上昇する「大インフレ」時代に入り、苦心惨憺(さんたん)の様子であった。
 統計資料によると「昭和10年の卸売物価水準を基準にすると、終戦時には3.5倍、24年には208倍を記録するなど、復興期の日本経済はハイパーインフレの真っ只中にあったようだ。
国民生活は極度に窮乏(きゅうぼう)していたが、政府はそれに追い討ちを掛けるように「強制的な預金封鎖(ふうさ)」という手段でインフレの沈静化をはかったのである。
 昭和21年2月、「金融緊急措置令」および「日本銀行券預入令」を公布し、5円以上の日本銀行券を預金、あるいは貯金、金銭信託として強制的に金融機関に預入させ、既存の預金とともに封鎖のうえ、生活費や事業費などに限って新銀行券による払い出しを認める、いわゆる「新円切り替え=幣価(へいか)の切り下げ」という非常措置を実施したのであった。
母の話によると、銀行からの払い出し限度月額は一世帯500円+一人当たり100円くらいだったらしい。
当時の信平にはその金額がどのくらいの価値かは分からなかったが、かなり苦しいようだった。
さらに半強制的に買わされた「戦時国債」も返済不能となり紙くず同然になったので、国民の家計は火の車であった。。
 もっとも、農家に食料品を買い出しに行っても「価値が下がり続けるお金はいらない」といって受け取らず、「高級な着物や帯」などを要求されたらしい。
母は祖母から買ってもらった上等な着物や帯を箪笥にいっぱい詰め込んでいたようだったが、そのほとんどが食料品に変わったと言って嘆(なげ)いていた。
いつも買い出しに行く農家の縁側に自分が食料品に換えた着物や帯が干してあるのを見ると悲しかったとこぼしていた。
信平も同情していたが、これは多くの家庭が経験したことだった。
その当時、食料品統制令をかたくなに守り、栄養失調症にかかって亡くなった裁判官もいたという話を聞いて、信平の心は晴れなかった。
しかし、「ヤミ物資」は少しづつではあったが市場にも出回るようになり、田舎の小さな食堂にも「うどん」や「いなり寿司」などが並ぶようになっていた。
信平たちの住んでいる近所にも「公設市場」が建ち、日用品や菓子類もわずかではあるが店先に並んでいた。

      映画と野球に熱中する 
 中学校は映画鑑賞を禁止していなかったので信平は嬉しかった。一人で行くこともあったが、大抵は平田や田中たちと行くことが多かった。
平田は同じ社宅に住んでいたこともあり、遊ぶことが好きだったから「遊びの親友」というところだった。
「おいちょカブ」も彼から教わった。
彼が誰から教わったのかはよく分からないが、家でもよくやっていたようだから、多分お父さんから教わったのではないだろうか。
お父さんは父と同じ会社の社員ではあったが、営業職だから工場ではなく支店に勤務していたので、仕事上の付き合いで「麻雀や花札」などの遊びも必要だったのだろう。
また、この頃から復活して盛んになり始めた「プロ野球」や「高校野球(当時は中等学校野球)」の試合情報にもくわしかったので、信平はいつも平田と一緒に遠くの野球場まで足を運んでいた。
信平が住んでいる町には野球場はなかったからだ。
その当時は福島投手を中心にした「小倉中学」の全盛時代で、本当に強かった。
山口県でも伝統ある「下関商業(下商)」が強豪といわれており、時々下関球場で対抗試合をやっていたので、平田としばしば下関や小倉まで見に行った。
下関までは汽車で1時間くらいかかっていたが苦にはならなかった。
プロ野球もオフには下関や宇部でオープン戦をやっていたので時々見に行った。
当時の大打者は川上(巨人)藤村(阪神)大下(東急)をはじめとして多士済々(たしさいさい)であったが、信平は阪神・藤村の闘志溢(あふ)れるバッティングを見て感動し、その場で阪神フアンになり今でも阪神フアンである。
 田中は社宅の近所に住んでいて小学生の頃からの親友だった。お父さんが「人入れ稼業」を営んでおり、「町の顔役」だったから、映画俳優や流行歌手など芸能人の「地方公演」や大相撲の勧進元を引き受けていた。
信平は田中に誘われて「俳優の実演」や」「歌謡大会」などにも再三連れて行ってもらっていた。勿論、入場料は無料である。
 当時は食糧難の時代だったから、有名な芸能人や力士も地方公演(いわゆる『ドサまわり』)に身を入れていたようだった。
「銀幕の大スター」といわれていた長谷川一男、片岡千恵蔵、市川右太衛門などをはじめ、女優では田中絹代、高峰三枝子、杉村春子、歌手では霧島昇、近江敏郎、岡晴夫、といった錚々(そうそう)たる芸能人が陸続(りくぞく)と巡回していた。勿論漫才の「エンタツ・アチャコ」などもいた。
憧れの「銀幕スター」を目の前にした時の信平の感動は並みのものではなかった。
また、有名歌手の公演を聞くことで「流行歌」を覚えることにも熱中し、大きな声で歌っていたが、とても「上手」とは言えなかった。
 その頃から戦後の混乱もようやく落ち着きを見せ始め、世の中は「新しいファッション」をはじめとする「若者文化」が横行するようになって、数々の「流行」を創出していった。
マスメディアは、その時代の若者を「アプレ・ゲール(戦後派)」と表現して世間に紹介した。
しかしその原点は既成のモラルに反発し、なにものにも拘束されない若者たちの奔放(ほんぽう)な言動が「自由だ」と理解され、欲望が開放された点にあったのだが、それはどこまでも「東京の文化」であり、地方の若者にとっては単に「憧(あこがれ)の象徴」でしかなかった。
それだけに「東京に対する憧れ」は誰もが強く抱いており、信平も「一度でいいから東京に行って見たいな~」と思っていた。
その反面「東京や大阪」などの大都会には、戦争で親や兄弟を亡くして生活苦を強いられている「戦災孤児(こじ)」も溢れていた。
また、少年や若者たちは、戦争を賛美(さんび)してきた教師が「戦後に豹変(ひょうへん)した」ことにに対してある種の不信感をつのらせていたことも事実である。
   
      父が倒れた!! 
 昭和23年8月、信平が中学3年生の夏休みだった。父が工場で勤務中に突然倒れて意識不明になったという連絡があった。
時を移さず市内の病院に入院させ、応急処置で取りあえず意識が回復したので診断を受けたところ、「疲労からくる心身症の疑いがあるので、暫くの間入院、加療が必要」とのことだった。
一見したところ通常の人と見分けがつかなかったが、医師の所見は「少し『記憶力』に問題があるようですから、気長な療養が必要です」ということだった。
 父は戦時中から男手不足の軍需工場の技術屋として、昼夜の区別もなく働き通してきており、戦争が終わって徐々に復員が進んではきたものの、GHQによる軍需工場の解体事務は多岐にわたり、レポートは英文タイプライターでの作成が要求されていたので、英語もタイプライターも経験に乏しい父にとっては、心身ともに大変な負担だったようである。
それに加えて、食糧難の中では栄養補給もままならず、疲労が限界に達していたのだろう。
信平は「一家の生活を支えてくれていた父の健康が回復しなかったらどうしよう?」と思い悩んでいたが、その当時の医療技術では父の病状は一向に快方には向かわなかったようだ。
 それから3ヶ月ばかり経ったある日、会社から母の所に連絡が来た。
「医師の診断によると『今の病状では記憶力の回復は相当困難であるから、従来の職務を遂行することは不可能であろう』という連絡であった。従って、頭脳的な仕事はムリのようだから「軽労働」の仕事に従事して欲しい」。
ただし、「現在の身分と待遇を維持することは難しい」と。
母は両親や伯父たちと相談していたようだったが、「仕方がないだろう」ということでしぶしぶでも了承せざるを得なかったようである。
 今では「労働災害保険制度」や労働組合もあるので、ある程度の「補償」も取れたのだろうが、その当時の社会保障制度や労使関係ではどうにもならなかったようだ。
その上、身分が変われば社宅も出なければならず「狭い長屋」への転居を余儀なくされ、収入も半分以下に下がったので、母は「これからどうしよう?」と嘆いていたが、直ぐにはいい思案も浮かばなかったようだった。
信平は「これからどうなるのだろう?」という不安と同時に、自分が「みじめ」な気持ちになり落ち込んでいった。
これも「八九三のブタ?」。
 父は「会社のために寝食も忘れて働いた結果」難病に罹(かか)ったのに、なぜこのようなひどい仕打ちを受けなければならいのだろうか?と割り切れない気持ちでいっぱいであった。
信平はこの事件で「会社の非情さ、冷たさ」を肌で感じていた。
 やがて昭和24年の新年を迎えることになるが、信平一家にとっては「お正月を祝う」どころではなかった。
田舎の町でもクリスマスには「ジングルベル」が鳴り響き、流行歌謡曲もどんどんリリースされ始めた時期であった。
信平たちも「こーんな女にだーれがしたー」と、意味も分からないのに大きい声で歌いながら街中を闊歩(かっぽ)していた。
これも「アプレ・ゲール」といわれた戦後派の若者の日常的なスタイルを真似(まね)したパフォーマンスだったのだろう。
 母は「住む所だけは何とかしたい」という強い思いがあったので、祖母と相談して実家の近所にあった親戚の「離れ」を借りることにした。
広い屋敷にある旧家の離れは、充分とはいえなかったが社宅の長屋に比べると雲泥(うんでい)の差があり、信平たちの満足度は高かった。
父はそのまま社宅に残り仕事を続けると言うので、信平たちは信平が中学校を卒業する3月を待って引っ越した。
信平は静かで自然が多い田舎の生活がどんなものか?興味が湧くと同時に、従兄たちとも遊べる嬉しさに胸をふくらませていた。

      また学制が変わった
昭和24年4月を迎えて信平は高校に進学したが、入試が免除されていたので大した感動はなかった。
併設中学校で一緒に学び、遊んだ級友はほとんどが進学したので信平は嬉しかったし、彼らも同じ思いだっただろう。
信平一家は3月に転居していたので、高校へは汽車に乗って行った。
転居先は山陽本線の支線になっており、信平が通う高校の一駅西の駅で乗り換えなければならず、待ち時間を入れて1時間以上はかかった。
 入学式といっても特別な儀式はなく、新たに新制中学校から受験して入学した級友数人の紹介があっただけだった。
しかし信平にとっては大問題が発生したのだ。担任の先生から「今年度から『学区制』が施行されることになったので、麻木はとなり町(一駅西にある)の高校に転校するように」という指示があった。晴天の霹靂(へきれき)だった。
信平は「急に言われても困るし、転校はいやだから何とかなりませんか?」と聞いてみたが「ダメだ」ということだったので、渋々ながらも転校の手続きをとって転校した。
3年間、否、小学校の6年間を入れると9年間も一緒に学び、遊んだ友達と別れなければならない悲しさは「他人には分かってもらえないだろうな」と思った。(これも「八九三のブタ?」)
 所定の期日までに信平は転校したが、同じ境遇の生徒が他に2人いたのでいくらか慰められる思いであった。
友人は河野と木島だった。中学時代はクラスが違っていたので深い付き合いはなかったが、
同じ境遇の3人が同じ列車で通学するのだから、心を通わせて親友になるのに時間はかからなかった。
信平にとって、もう一つ嬉しかったことは従兄の貞人君(武史さんの弟)が同じ高校にいたということだった。
クラスが違うのでいつも会えるという訳ではなかったが、何となく心強かった。
従兄も同じ列車で通学していたが、下車する駅は信平よりも三駅ほど手前だったので、土曜日には時々一緒に下車して遊びに行っていた。これも楽しかった。
 信平が鬱々(うつうつ)としながら通学を始めて1ヶ月ばかり経ったある日、担任の先生から「後で教員室に来なさい」という指示があった。
信平は「何事だろう?」といぶかりながら教員室に行ったところ、河野も木島も来ていたので、「何事かな~」と聞いてみたが二人とも「分からない」と答えた。
しばらくして教頭先生が入ってきて「君たちには不本意な転校を強制して申し訳なかったが、今年度に限り、希望があれば元の高校に再入学しても良いことになった」と伝えたので信平たち3人は小躍(こおど)りして喜んだ。
早速転校の手続きを終えて元の高校に再入学したので、友達もみんな大喜びだった。
信平も涙が出るほど嬉しかった。
 それにしてもくるくる変わる「学制」にあきれ果てる信平だったが、これも「時代のなせる業(わざ)」で、どうしようもなかったのであった。(まさに八九三のブタである)。

      厳しい高校生活が始まった
 信平の高校生活は思わぬ波紋の中でスタートしたが、父の収入が激減し生活難にも見舞われて前途多難の様相(ようそう)を呈していた。信平が「身の不運」を嘆き悲しんだ一時期であった。
 昭和24年は戦後の復興も徐々に進んでいたが、激しいインフレは容易に収束のきざしを見せなかったために、インフレ収縮に主眼を置くアメリカ政府の「一挙安定論」が優勢となり、「経済安定9原則」を具体化した「ドッジ・ライン」が発表された。
ドッジ・ラインは、まず超均衡財政によるインフレ収束を目指して、昭和24年度予算を歳入超過に導くとともに、4月には1ドル=360円の単一レートが設定された。
その結果、通貨増発要因は解消されてインフレは一気に収束したが、デフレの中で倒産や解雇があいつぎ、いわゆる「ドッジ不況」がもたらされたといわれている。
一方、このような社会不安を背景に、社会的な大事件が頻発(ひんぱつ)して日本中を恐怖のどん底におとしいれたのもこの年の特徴であった。
 7月6日の「下山(しもやま)事件」、7月15日の「三鷹(みたか)事件」、8月17日の「松川事件」と、いずれも国鉄にかかわる大きな事件があいついだのだった。
下山事件は、国鉄が大リストラ発表の直後、下山貞則国鉄総裁が突然行方不明になり轢死体(れきしたい)で発見された。
三鷹事件は、中央線三鷹駅構内で無人列車が暴走し民家に突っ込んだ。
松川事件は、東北本線松川駅付近のレールのクギが抜かれて、機関士ら3人が死亡したという、いすれも手口が同様な凶悪犯罪であった。
 これら一連の事件の犯行は「アメリカのCIAと占領軍の合作(がっさく)ではないか?」と推理されていたが、検察当局は直ちに事件を「共産党のしわざ」と決めつけて、結局9名の共産党員と1名の非党員(三鷹電車区勤務)を逮捕したが、この真相は今もって霧の中にあるようだ。
 このような時代背景の中で、田舎(いなか)の高等学校もいくらか落ち着きを取り戻しており、教師陣も徐々にではあるが充実していた。
この年の4月に校長先生も代替わりしていたが、信平は1ヶ月間他校へ行っていたので知らなかった。
登校した初日の昼休みが終わる頃、信平が教員室の前を通っていると、見なれない「ゴマ塩頭」のおじさんが、始業時間を告げる半鐘(はんしょう)を木槌(きづち)で叩いているので「新しい用務員さんが来たのかな?」と思ったが、なんとそれが新しい校長先生だと聞いてびっくりした。
信平が知っている「校長先生像」は小学校も中学校も気位(きぐらい)の高い先生だという思い込みが強かったからだった。
 教科書も新学期から渡されていたが、信平たち転校生が持っている教科書はほとんど使い物にならなかった。
当時の教科書代はそんなに高価なものではなかったが、家計のやり繰りに苦労している母のことを考えると気持ちが暗くなるのだった。
その他にも通学に必要な定期券代や、当時は制服はなかったが「高校生らしい服装」を求められていたので、母の苦労は手に取るように分かっていたから余計に辛かった。
父も貧困の中での別居生活であるから、生活費も思うようには使えなかったようだった。
信平は毎週日曜日に米、麦や野菜類を父の所に届けるのが日課になっていた。
週末に「父が帰ればいいではないか?」と信平は不満に思っていたが、旅費の捻出(ねんしゅつ)も困難だったのだろう。
信平は通学定期券を持っているので、家計の負担にはならなかったからである。
それに、信平は中学生の中頃から始まった「クラブ活動」でバスケットボール(当時は『篭球』)をやっていて、毎週日曜日にも練習に出ていたので、肉体的にもそれほど大きな負担にはならなかった
 バスケットボールも当初は運動靴が無いので「はだし」でやっていたが、先生から「危険だし、対外試合をやる時もあるだろうから「バスケットシューズやユニフォームもそろ揃えたらどうか」と言われた。
信平は「困ったな」と思ったが部員の大半は賛成したので従わざるを得なかった。
信平はバスケが好きになり人並み以上に練習に熱中していたので、上達も人並み以上だった。
ショートパンツ、ランニングシャツ、バスケットシューズなどを取り揃えるとなると相当な出費になる。
また母に「苦労を掛けるな」と思うと信平は憂鬱(ゆううつ)になるのであったが、思い切って母に相談すると「困ったね~」とつぶやきながら、それでも「なんとかしよう・・・」と言ってくれたのでほっとした。
 今振り返ってみると、経済的に苦しい高校生活を支えてくれたのは、勿論「両親の苦労」が一番であるが、精神的に支えてくれたのは「バスケットボール」だったと思う。
それからの信平は高下駄履きで、当時流行していた「ブックバンド」でしばった教科書を持ち、空いた手に「宝物」のバスケットシューズをぶら下げて汽車に乗るのが日課であった。
当時はまだ運動靴が出廻っていなかったので、ほとんどの男生徒は下駄履き(中には草履履きもいた)、それも「ほうば歯」といって下駄の台に「高い歯」を差し込んだ「高下駄」がファッションのようになっていた。
旧制高校時代の名残りだったのかも知れない。
「ほう歯」を使い減らして低くなると、信平は自分で「下駄の歯」を取り替えていた。
併設中学生時代の帽子は戦闘帽であり、被(かぶ)っても被らなくてもよかったが、高校に進学したら「併設中学校」が廃止されるので、「これを機会に」ということか帽子も決まった。
これも旧制高校生が被っていた「白線入り」の学生帽で白線は2本入りだった。
校章も私塾の創設者・粟屋活輔先生の家紋をそのまま図案化したものだったが、女子商業学校と統合した昭和24年度から、それを変形したものに変わってしまった。
 信平たちは「伝統ある学校」の校章を簡単に変更されたことに対して、大きな不満を唱えていたが、引き続いて起こった変更には全校生徒が怒りの声を発して、ストライキまがいの行動を取ったので学校側も困っていた。
というのは「校歌」の変更だった。
 昭和17年に市立から県立中学校に格上げされた記念に、それにふさわしい校歌を制定しようということで、大先輩である人気歌手の林伊佐緒が作曲、コンビを組んでいた時雨音羽(しぐれおとば:当時の人気作詞家)が作詞という、全生徒が誇りに思っていた校歌を相談もなく「校長作詞、音楽教諭作曲」という何の変哲(へんてつ)もない平凡な校歌に変えたのだから、生徒が怒り狂うのも当然であった。
信平たち旧制中学組のほとんどは抵抗して、卒業するまで校歌を歌わなかった。
女子生徒はそんな歴史的なことは知らないので抵抗もなかったのだが、それも当然であろう。
 同じ高校の女子高生が「どのようなスタイルであったか?」については校舎が離れていたので、ほとんど交流もなく記憶が定かではないが、女子商業学校時代の制服である「セーラー服にズック靴」だったように思う。
 他方、汽車通学すれば同じ列車に他校の女子生徒も大勢乗っているので、彼女たちのスタイルは否が応でも目に入っていたからよく覚えている。
信平と同じ高校の女生徒はいなかったが、近郊の「旧高等女学校」「県立女子商業学校」「私立女子学園」の3校への通学者がほとんどだったと思う。
いずれも「セーラー服」は共通だったが「襟の白線」やスカートの形はそれぞれ違っていたようだった。
お互いに小学生の頃から「男女席を同じゅうせず」という時代に育っているので、気楽に会話が出来るような雰囲気(ふんいき)ではなかったが、「珍しいもの」でも見るような感じでお互いに「関心」は持っていたようである。

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2006.06.15

第3章 青春時代

     「バスケ漬け」の高校生活 
信平の高校生活は味気(あじけ)ない毎日であったが、唯一の楽しみは「バスケ」であった。
当時の高校にはスポーツの設備はほとんど無いような状態であり、バスケも剣道場の梁にリング・ボードを取り付けただけのお粗末なものだったので、ミドルシュートを打つと天井の梁にボールが当たって練習にならなかった。
しかも、バスケをやったことがある先生は一人もいないので、先輩が見よう見まねで教えてくれるのだがまことに心許(こころもと)なかった。
いろいろな伝(つて)を頼ってコーチを探していたところ、市内の発電所に勤めている人が「バスケの経験がある」というのでお願いして来てもらった。しかも無報酬で。
40歳代半ばくらいだったと思うが、なかなかの人格者で頼りになる人物であった。
信平たちもそのコーチを信頼し「ようやくバスケらしい練習が出来る」と喜んで練習に励むようになったが、放課後の練習は毎日6時頃まで続いたので、信平が乗車する列車は5時半を過ぎると8時過ぎまで待たなければならなかった。
 信平たちは空腹感に耐えられなくて、学校の前にある文房具屋兼雑貨屋さんで1個10円のアンパンを買って食べるのが日課になっていた。
母もそのあたりは察してくれて小遣い銭を呉れていたが、食べ盛りの信平には1個だけでは物足りず、時々は2個目に手をの伸ばしていた。
当然のことながら小遣い銭は不足するので、参考書代としてもらったお金を流用するようになり、遂には月末までに納付しなければならない授業料にまで手をつける始末となった。
さすがにのんびり屋の信平も罪悪感に耐え切れず、母に白状したのだった。
母は「使い込んだことも悪いが、親をだましたことは許せない」と言って大目玉を食った。
悪いのは信平だからあやまるほかなかったので神妙(しんみょう)に聞いていた。
 もう一つ困ったことは同じ列車で一緒に通学している河野が、「一人で帰るのも面白くない」と言って、毎日練習を見ていることだった。
それも終わるまで見ているので5時半の列車には乗れない。信平は気の毒に思えて仕方なかった。
彼は幼児の頃カゼがもとで関節炎を患(わずら)い「左のヒザが不自由だ」と言っていた。
そのせいか内気で引きこもり気味の生徒だったので、信平はいつもそれとなく励ましていた。
ある日「練習を見ているよりも、やっててみたら?」と誘ったところ、最初は躊躇(ちゅうちょ)していたが、その内に「やってみようか?」といって入部したのだった。
最初の頃は「不自由なヒザ」をかば庇うようにして走っていたが徐々に慣れてきたのか、半年も経った頃には普通に走ったりジャンプできるようになっていた。
「もう大丈夫だ!!」と河野は大喜びだった。そして信平に「ありがとう」と礼を言った。
 バスケのお陰で長い間苦しんできた「ヒザ」が直り、人並みに運動できるようになった嬉しさは、他人には想像もつかないことだが信平は自分のことのように嬉しかった。
信平にとってもう一つ朗報があった。一緒にバスケ部で汗を流していた杉下が父親の転勤で、信平と同じ町に引っ越して来たのだ。
これで、同じ列車で通学する仲間が一人増えて4人になったのだった。
 その当時は「篭球(ろうきゅう)」といっても知る人は少なく、野球以外の「蹴球(サッカー)」や「排球(バレーボール)」と同様に、市民にはほとんど認知されていなかったので、バスケの部員も少なかった。
信平の同学年生は6~7人、先輩は3人程度だったので、練習も活気がなかった。
ところが信平たちが2年生になり、待ちに待った「下級生」が入学すると10数人ばかりの新入部員が入ってきたので一挙に大所帯になった。
ただ、物足りなかったことは新入生のほとんどが身長が低かったことだ。
信平も170センチそこそこで高い方ではなかったが、彼らは一人の例外(約180センチ)を除けば全員が160センチそこそこであった。
それでも人数が増えたことによって活気が出てきたことは有難かった。
先輩たちも3学年になると受験勉強でいそがしくなると言って、ほとんど退部していったので、部活動の中心は信平たち2年生が背負うことになった。
当然のことながら「部長」・「キャプテン」といった役割も決めなければならないので、全部員で話し合った結果、「部長兼キャプテン」ということで信平が指名されたのだった。
信平は驚いて「それは困る、部長とキャプテンは別にすべきだ」と主張したが誰も聞き入れてくれなかった。

      バスケのコートを造って!!
 部員が増えたことは嬉しかったが、困ったことにコートが手狭(てぜま)になったのだ。
もともと剣道場に作られた中途半端なコートだったから「なんとかして欲しい」と学校に要求していたが「予算が無い」の一点張りで実現できなかった。
部長になった信平は、その責任感からも「何とかして欲しい」と顧問の先生を通して学校側に再三要求したが回答はいつも同じであった。
信平は次善(じぜん)の策として「それではせめて剣道場(その頃には体育館と呼んでいた)の床を取っ払ってください」、そして「来年度にはもっと部員が増えると思うので、運動場の片隅でいいから『バスケット・コート』を新設する予算を取ってください」と熱心に要求し続けた。
先生は「分かった。努力しよう」といったあとで「体育館の床の件については早急に何とかしよう」と答えてくれたので、信平はほっとしてそのことを部員に伝えた。
1ヶ月くらい経った頃に床の取り壊し作業が始まり半月ばかりで終了したので、梁までの高さは1メートルばかり高くなりみんな大喜びだったが、困ったことに地面には石ころが多く凸凹だらけのコートになってしまった。
「困ったな~」とみんな嘆いていたが、自分たちが要求したことだったから文句も言えなかった。
全部員でこつこつと整地作業をはじめたのであった。
 一方、女子が通っている南校舎には、野外ではあったが正規のコートがあることを聞いたので、女子部の部長と連絡を取ってもらって日曜日や休日には「合同練習」ということにしてもらった。
練習に出てくる常連は男女ともに数名程度であったが、熱心な生徒ばかりだったから練習にも熱が入っていて楽しかった。
女子生徒たちは練習の後でトランプをして遊んでいたので、信平たちにも声が掛かった。
最初は躊躇(ちゅうちょ)していた信平たちもすぐに打ち解けて一緒に遊ぶようになったので、これも楽しみの一つであった。
信平たちは生まれて初めて男女が一緒にスポーツやトランプを楽しむ経験をしたので、むしろそのことの方が楽しかった。
しかし、この事が学校に知れるとバスケ担当の先生から「合同練習はよいが『不純交際』につながるような遊びはつつしむように」と嫌味(いやみ)をいわれた。
その当時はまだそのような古臭い考え方が残っており、ラブレターを出したことがばれると「始末書」、アベックで日帰り旅行でもしようものなら「停学」という厳罰が待っていた。
今では想像もできないような「不可思議(ふかしぎ)なこと」であるが、先生は「嫉妬(やきもち)」を焼いていたのではないのだろうかとも思えるような「お仕置き」だった。
 夏休みのある日のこと、バスケの合同練習の後で信平は女子部の部長である石田真由美さんに「ボートに乗りませんか?」と誘われた。
南校舎のグランドのすぐそばにかなり大きな溜池(ためいけ)があり、貸しボーと屋が数艘(すうそう)のボートを浮かべていた。
信平は女性に誘われるのは始めてだったので、ドギマギしながら照れていると、彼女はなんの躊躇もなく信平の手を取ってボート小屋に入っていった。
彼女はいつもボートに乗っているらしく、ボート番の小父さんとも親しげに話していた。
夏の午後の日差しは強烈であったが、アベックでボートに乗った信平の胸はもっと強烈に高鳴っていた。
トランプ遊びでも先生に嫌味(いやみ)を言われたのに、男女が一緒にボートに乗ったことがばれると、どんなお仕置きが待っているのかと思うと信平の心は穏やかではなかった。
それは、自分自身のことだけではなく、石田さんにも迷惑を掛けることになるのではないだろうか?とも思ったからであった。

      対外試合が始まった
 この頃だったと思うが、近郊の高校4校でバスケの交流試合を始めることになった。
どこも同じような環境だったから、実力は似たり寄ったりで飛び抜けて強い学校はなかった。
コートは持ち回りだったが、信平の学校にはコートが無いので南校舎のコートを使わせてもらっていた。
この交流戦も楽しかった。
秋になって山口県体育大会(県体)に初めて出場した。その当時は参加校も少なかったので予選は無く、申し込めば無条件で参加できた。
会場に行って抽選で決められた相手校を見て驚いた。県下でも1~2を争う強豪で国体の常連でもある下関西高校だった。
信平たちは「相手にとって不足は無い」と強がりをいっていたが、「コートイン」のホイッスルが鳴るとみんな全身にふるえがきて困っていた。
先生もコーチも「落ち着いて、相手の胸を借りるつもりでぶっつかって来い!!」と言って励ましてくれたが、震えは止まらなかった。
試合開始のホイッスルと同時にセンターのジャンプボールだ。ジャンプボールはどうしたはずみか、敵のセンターがはじいたボールを味方のガード(杉下)が取ってドリブルしながら、ゴール下にカットインした信平にパスしてくれた。
信平は「以外にやれるな?」と余計な事を考えたとたんに、足が金縛(かなしば)りにあったようにもつれてしまってシュートが打てず、簡単にボールを奪われてしまったのだ。
チャンスは後にも先にもこれ一回だけ、ゲームは敵の速攻につぐ速攻で、あっという間に「20対0」。大会ルールによって「コールドゲーム」となり大敗した。
信平はみんなに申し訳なくて平謝(ひらあやまり)に謝ったが、「お前のせいじゃーないよ、敵が強すぎたんだ」と言って慰めてくれたので、いくらか気持ちが落ち着いた。
 信平が3年生になった時に「篭球部」に大きな異変が起こった。
この年からクラブ活動について学校は、体育系・文科系ともに必ず一つを選択するように指導していたので、新入生もそれに従って「希望する部」を選択して「入部申込書」を提出するのだが、信平は篭球部に集まった申込書の束を見てびっくり仰天(ぎょうてん)した。
なんと、女子が約60名、男子が約50名、合計110名ばかりの申込書が来たのであった。
これまでは、「必ず一つ選択」という規定がルーズに運用されていたので、どこの部も大人数にはならなかったが、今年度から厳しくなり担任の先生が一人づつチェックしたのでサボるわけにいかなくなったようだ。
現在の部員は20人ばかりいたが、コートのキャパシティはほぼ満杯状態だったので、100人以上も増えるのではパンクしてしまうことは明らかである。
 信平は新入部員の何人かに「入部の動機」について聞いてみたところ、その回答に再度ビックリした。
「篭球がどんなスポーツかはよく知らないが、あまり練習しなくてもよさそうだから」という回答が100%に近かったのだから。
それでも練習日の初日には男女合わせて50名くらいは参加していたので、体育館は満杯(まんぱい)になり身動きが取れない状況であった。
信平は「まじめに練習したい」という部員の数を確認して、練習日の割り当て表を作った。
このような盛況を誰も予想していなかったので、先生は勿論、他の運動部の連中も驚くやら羨(うらや)ましがるやらで、暫くの間話題になっていた。
 新年度の予算会議ではこの実績が認められて、予算が大幅に増額され「コート」についても、今年度中に「屋外コート」を造ることが決められたので、みんな大喜びであった。
理由はともかく、新入部員が大勢入ってきてくれたことが嬉しかった。
  
     男女が机を並べる時が来た
信平たちが3年生に進級する昭和26年4月に待望の「男女共学」が実現したのである。
今まで男子校舎を「北校舎」、女子校舎を「南校舎」と呼んでいたが、この年から「男女の別」なく、南北両校舎への通学地域を決めて振り分けることになったので、信平たちが長い間待ち望んでいた「男女共学」がようやく実現したのであった。
信平は中学生の時から通っていた「北校舎」に決まってほっとしたが、親友の平田が南校舎に行ったことは残念だった。彼も残念がっていたがその内に段々と疎遠(そえん)になっていった。
星野とは相変わらず一緒であり、クラスも変わらなかった。
1学年の定員は男女とも120名で合計240名だったから、各40名で6学級になった。
各学級も男女半々であったが、教科はほとんど選択制だったので、ホームルーム以外はみんなバラバラだった。
体育の授業は「男女共学」の経験がない先生は困っていた。
男女一緒では何も出来ないし、いつも自由時間という訳にもいかず、仕方なくクラブ活動と同じようにグループを分けて、各球技のコートでそれぞれ責任者をつけて練習させていた。
信平はバスケの責任者に指名されたので、いつもバスケばかりをやっていた。時には他の球技もやってみたかったがそれも出来なかった。
 運動会は2年生の時から合同でやっていたので楽しかった。特に「フォークダンス」は楽しかった。
男女がパートナーとなって踊りながら行進するのであるが、音楽の節目節目でパートナーが変わらなければならないので、次のパートナーが気になり「次は誰かな?」と思って胸をはずませるのだった。
信平にも「お目当て」のパートナーが何人かいたので、運よく彼女たちに遭遇(そうぐう)して手をつなぐことができると、それは「至福(しふく)のひととき」であった。石田真由美さんもその内の一人だった。

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2006.06.16

ランニングは得意だった

      ランニングは得意だった
 信平はバスケのお陰で「ランニング」は短距離も長距離も早い方だったので、運動会では目立っていた。
また、旧制中学校時代からの伝統競技であった「マラソン大会(12km走)」は毎年行われていて、信平は中学1年生の時から毎年参加していた。
中学1年生の頃(昭和21年)の12キロメートルは辛かった。第1に「長距離」は走ったことがなかった。第2に道路は舗装してなくて石ころだらけのでこぼこ道だった。
第3に「履くもの」が無かった。運動靴は勿論無いので「草履」か「はだし」である。
草履を履いても「緒(お)ずれ」ができるので痛くて走れないし、ハダシではなおさらであった。
若冠12歳の子供がハダシで「石ころ道」を12km走り切る事は難業苦行(なんぎょうくぎょう)だった。
しかし信平は頑張った。1年生の時は87等、全校生徒(1年生~5年生)は約600人であるから「頑張ったな~」と自分でも満足できる成績であった。
 高校3年生の時にはバスケの練習で鍛(きた)えていた「足と心臓」があったので、走ることに抵抗感はなかった。
いつもの「トレーニングシャツにトレーニングパンツ、バスケットシューズ」で走るのだから特別の負担は感じない。
陸上競技部の長距離選手と抜きつ抜かれつでトップ争いを繰り返しながら走っていたが、10kmばかり走ったあたりで、ほぼ決着がついた。
陸上競技部で駅伝競走のエースであった中田がトップに躍り出て、徐々に距離を離して行ったので信平は追いつけなくなってしまった。
その時点で信平は3位をかなり引き離して2位を走っていたが、ゴールが近づいた頃になって、陸上競技部の上田が顔面蒼白(そうはく)になり必死の形相(ぎょうそう)で追(せま)ってきたので、信平は「彼の立場もあるだろう」と思って同情し、徐々にスピードをダウンして2位を譲(ゆず)った。
後で上田は「どうも有難う」と礼をいったので信平はいささか面映(おもはゆ)い感じであった。
 信平は3年生の運動会も楽しみにしていたが、バスケの練習で足を捻挫(ねんざ)して走れなくなってしまったので残念な思いをしていた。
放送部に在籍していた信平は、高校生最後の運動会を「実況放送」という裏方の仕事にまわることになったが「これもいい経験」だと割り切ることにした。
運動会が終わると後は「大学受験」一色になっていくのであるが、信平は未だに「どうするか?」決めかねていて、受験勉強にも力が入らなかった。

      朝鮮戦争勃発(ぼっぱつ) 
 昭和25年6月25日、朝鮮戦争が勃発したと報道されたが信平たちにとって、それは「どのような戦争なのか?」また「日本にとってどのような影響があるのか?」についてはまったく理解できないことであった。
しかし、今思い起こして歴史を手繰(たぐ)り寄せてみると「日本の戦後史を塗り替える」ほどの重要な戦争だったようである。
表面的には「北の政府(現在の北朝鮮)」と「南の政府(現在の韓国)」(この時代には両政府ともに「国家」として認知されていなかった)による朝鮮半島の主導権争いに端(たん)を発した紛争(ふんそう)であったが、途中から北朝鮮に中国軍が支援する「中朝軍」と、アメリカの意向を受けた国連軍が支援する「韓国・国連連合軍」との戦争に変化していった。
 戦況は38度線を境に一進一退を繰り返していたが膠着(こうちゃく)状態となり、国連軍総司令官・マッカーサー元帥は中国北部(満州)の工業地帯を急襲して、中国軍の補給路を遮断(しゃだん)する戦略を提案したが、ソ連を刺激したくないトルーマン大統領は26年4月にマッカーサーを解任した。
 この後、ソ連の提案により停戦が模索(もさく)され、同年7月から休戦会談が断続的(だんぞくてき)に繰り返されたが、双方とも「有利な条件」を要求し合ったために交渉は難航した。
結局、スターリンの死後の昭和28年7月27日、板門店(はんもんてん)で北朝鮮・中国と国連軍の間で休戦協定が結ばれ、3年間続いた戦争は終結した。
 ソウルの支配者が二転三転する激しい戦闘の結果約400万人の犠牲者を出し、さらに兵士として戦っている最中に郷里が占領されて、一家がバラバラにされた「離散家族」が多数生まれたといわれている。
これも「戦争の残酷(ざんこく)さ」を物語る厳しい現実であった。
 一方「日本への影響」はどうだったのだろうか?日本は米軍が兵器の修理や弾薬を発注したために戦後の復興に弾みがついて、「朝鮮特需」といわれる産業の活性化・現代化がその後の高度経済成長をもたらしたといわれている。
また、対共産圏の基地とするために戦争犯罪者に対する追求がゆるやかになったり、警察予備隊(後の自衛隊)が編成されたことで事実上軍隊が復活するなど、戦後の日本の政治・経済・防衛にも大きな影響を与えたのであった。
 一方、日本を独立させるための「サンフランシスコ平和条約の締結」が急がれ、昭和26年9月8日に講和条約と同時に「日米安保条約」も締結され、国際社会に復帰することができた。
このような「朝鮮特需」をベースとして、日本は「高度経済成長時代」に突入していくのであるが、その間に生じた様々な「光と影」については後で詳述(しょうじゅつ)する。

      大学への進学を断念 
 信平は家庭の経済的な事情を考えると受験勉強にも身が入らず、いつまでも進路を決めかねて悶々(もんもん)といしていた。
そのためか、学業成績も「上の下」まで下がっていたので、進学するとすれば「猛勉強」が必要であったのだが、それも出来ないままにバスケに没頭(ぼっとう)することで気を紛(まぎ)らわせていた。
 9月になって、「国公立大学」への受験希望者に義務付けられた、全国一律の「大学進学適性検査」の実施時期が12月16日(日曜日)と発表された。
しかし信平は父や伯父が推奨する「九州工大」にはどうしても入学する気持ちになれなかった。
自分は「技術者に向かない」と思っていたし、作業服を着て埃(ほこり)っぽい工場で働いていた父の姿を想像すると、どうしても自分には出来ないとも思って「国公立大学」は断念した。
 信平の将来の志望は外交官かジャーナリストだったので、東京六大学の「早稲田に行けたらな~」という願望が強かったが、経済的にムリだとも思っていた。
しかし、一度上京して「様子(ようす)を見たいな」という思いも強かったので、その機会を窺(うかが)っていたが、それは以外に早く実現した。
10月のはじめ頃だったと思うが、学校の「就職掲示板」に、父が以前勤務していた化学工業会社の求人案内が掲示されていたのだった。
その要綱は「本社採用の正社員、試験期日は12月16日(日曜日)、試験会場は東京、旅費支給」というものだったので、信平は「これだ!!」と飛び上がるほど嬉しかった。
これで進学適性検査をのが逃れる言い訳ができること、旅費の心配も無く東京に行けること、そして、上京すれば東京生活の情報がいくらかでも取れるだろうとも思った。
早速担任の先生と相談して入社試験の願書を提出したのであるが、困ったことは「当面の旅費をどうするか」ということだった。
 旅費は会社が支給してくれるのだが、試験が終わるまでは立替え無ければならないのだ。
困った信平は母の弟である叔父に「母には内緒だが」と言って事情を打ち明け、当面の金策を頼んでみた。
信平の家の近所で洋服の仕立て屋を営んでいた若い叔父は、優しくて物分りがよい人だったから「お母さんにあまり心配を掛けるなよ」と言って3千円を用立ててくれたので、信平はほっとしたが、その反面「母には悪いことをしたな」と心で謝(あやま)っていた。
母には「試験勉強で1週間ばかり星野の家に泊まる」と言ってごまかすことにしたが、暫くは罪悪感にさいなまれていた。
 さらなる問題は「宿泊」だった。旅館に宿泊すれば規定の日数しか滞在できないから、1日でも長く滞在したい信平は、早稲田大学に在学中の2年先輩(同じバスケ部だった)である宮野さんに手紙で相談したところ、「狭いけど俺の下宿に泊まればいい」と即座に了承してくれたので、信平はこれを「地獄(じごく)に仏(ほとけ)というのだろう」と天にも昇る心地であった。
これで上京の段取りが出来た信平は安心してバスケに打ち込むことが出来たのであるが、受験勉強のことを考えると気分が重かった。
 12月15日、入社試験日の前日の朝に上京した信平は、宮野先輩の出迎えを受けて早速東京の地理についてレクチャーを受けたが、理解するには時間が必要であった。「東京は広いな~」と信平はあらためて驚いていた。
その当時、信平が住んでいるところから上京するとなると、急行(当時は特急は無かった)で約20時間かかるのだが、それも座席の確保は到底ムリだったので、風呂敷や新聞紙を持ち込み通路に敷いて腰を下ろしていた。
勿論、寝るのもそのままだったが上京できる嬉しさで苦痛は感じなかった。
その日は宮城を案内してもらった後で、試験を受ける化学工業会社(日本橋)の下見に案内してもらった。
古いながらも自前のビルであった。
その後で、信平が憧れの早稲田大学キャンパスを案内してもらって大感激だった。
「何とか早稲田に入れるといいな~」と祈るような気持ちでキャンパスを後にした。
信平はあらためて宮野先輩に「有難うございました」とお礼を言い、事の(経緯)いきさつをくわしく説明して理解を求めたのだった。
宮野先輩は「折角(せっかく)上京したのだから、ゆっくり遊んで帰れよ」と言ってくれたので、信平はいくらか気が楽になった。そして「持つべきものは先輩だな」と思っていた。
 試験当日は午前8時に「本社前に集合」と言われていたので、少し早めに指定の場所に到着したところ、本社前には40人乗りくらいの大型バスが8台も列をなして並んでいたので、信平は「300人以上も受験するのか!?」とびっくり仰天(ぎょうてん)したのだった。
信平の同級生も10数人来ていた。
後で聞いた話によると、今回の求人は全国の事業場から希望者を募集し、まず書類選考で300名に絞って受験させたのであって、提出された応募書類の数は千人を超えていたということだった。
案内された一次試験の会場は江東区の都立商業高校だった。日曜日だったので教室をいくつか借り上げていたようだった。
 試験は9時から始まったが、その前に担当者から受験の注意事項としていくつかの説明を受けた。
一般問題は国語・数学・社会で制限時間は1時間30分、英語は制限時間1時間、いずれも「進学適性検査」と同程度の問題であること、受験番号と氏名は必ず記入すること、最後に筆記用具は出来るだけ「万年筆」を使用して欲しいというような事であった。
「なぜ万年筆か?」についてはよく理解できなかったが、受験をあまり意識していなかった信平は万年筆しか持参していなかったのでほっとした。
ほとんどの受験生は事前にたくさんの鉛筆を削ってペンシルケースに収めていたのでがっかりしたのでは?と思った。
信平は「どうしても合格したい」と思っていなかったので、さしたる緊張感もなく平常心(へいじょうしん)で答案用紙と向き合うことが出来た。
 一般問題はさほどの難問も無くすらすらと記入できたし、英語も「英会話塾」でいくらか勉強していたのでなんとかこなすことが出来た。
ただ、万年筆で書きなぐったので訂正した箇所は少し汚れていたが、あまり気にも留めなかった。
答案用紙を全員が出し終わったところで、担当者から次の日程についての説明を受けた。
これから直ちに「健康診断」を受けてもらうので、全員バスに乗って待機すること。終わったら自由に帰ってもいいということ。
さらに、二次試験の面接は明日午前9時から一次試験合格者のみ行うこと、1次試験の結果は本社6回の面接会場に掲示しておくので、合格者は残って「面接試験」を受けること、不合格者は旅費を支給するので受け取って帰ってよい、面接受験者は面接終了後に旅費を支給するので受け取るように。ということだった。
その日は健康診断に時間がかかり過ぎて、終わって外に出るとすでにとっぷりと暮れた東京の夜空だったので、信平は不安ではあったが一人で先輩の下宿に帰らなければならなかった。
 翌日は所定の時刻に面接会場に行き「一次合格者の発表」を見たところ、信平の受験番号が目に入ったので、なぜかほっとした気持ちになっていた。
合格者は54名いたが信平の同級生は同じクラスの吉田だけであった。
これから面接試験を受けることになるのだが、予定表を見ると信平は18番目になっていた。
面接時間が一人5分としても1時間半ばかり待たなければならない。これでは遊ぶ時間が短くなるので面白くない。
信平は女子事務員さんに「早く山口県に帰りたいので面接を早めて欲しい」と申し出たところ、「それでは5番目にしましょう」といって繰り上げてくれたので助かった。
最後の合格発表は3日後の12月20日午後1時に、同じ場所に掲示するということだった。
信平は試験から無事開放された安心感からか、銀座をはじめ各盛り場に足を延ばして思いっきり遊んで回った。

      入社試験に合格!!
 宮野先輩は「折角だからクリスマスまで居たらどうか?そしたら一緒に帰省できるから」と言ってくれたので嬉しかった。
時間はたっぷりあるので安心して映画を見て回ったり、浅草の国際劇場や有楽町の日劇などにも行ってみた。
どれもこれも「田舎者」には想像もつかないような豪華絢爛(ごうかけんらん)さに「東京は凄(すご)いな~」、信平はしみじみと思うのであった。
 20日の合格発表には宮野先輩も同行してくれたので心強かった。
午後1時過ぎに発表会場に到着したが、信平は「嘘(うそ)をついて面接時間を繰り上げてもらった」という面映(おもはゆ)さがあったので、宮野先輩に受験番号を教えて「見てきてください」と頼んだ。
先輩は快く引き受けてくれて会場に消えていったので、信平は中には入らず外で待つことにした。
暫くして先輩がニコニコしながら出てくるなり「おめでとう!合格したよ!!」と言って我がことのように喜んでくれたので信平は涙がこぼれるほど嬉しかった。
「合格者は25名、物凄い競争率だったな~」と宮野先輩は驚いていたようだった。
そして、「合格通知をもらいたいと言ったら、家の方に直接郵送します」ということだったと話してくれたが、信平にとってはどうでもよいことだった。
結局クリスマスまで滞在した信平は、冬休みになった先輩の案内でいろいろな所に連れて行ってもらうことが出来た。まさに「盆と正月が一緒」に来たような楽しい一時期であった。
 久しぶりに我が家に帰った信平は何食わぬ顔で家に入ると、母が「合格おめでとう」と言ったので驚いた。
合格通知は21日にまず電報で送られ、その後の23日には正式な合格通知が郵送されたとのことだった。
信平は母をだました後ろめたさもあってどぎまぎしていると、「合格して嬉しいよ」と言う母の言葉に救われた思いがした。
母は叔父から一連の経緯(いきさつ)を聞いて信平のたくらみをすべて知っていたのだった。
「叔父さんに借りたものは直ぐに返しなさいよ」と言われたが、幾らか使い込んでいたので、母に謝(あや)まって不足分を補(おぎな)ってもらい、合格の報告と一緒にお金を返しに行った。
叔父は合格したことを知っていたので、「おめでとう。よく頑張ったな~」と言って祝福してくれたのだった。
そして「これからはお母さんに楽をさせて上げなさいよ」と言って信平の顔を見つめていたので、信平も「はい」と言ってうなずくだけであった。
その頃は父も前の会社を退職して伯父の畳会社に転職していたので、「よく頑張ったな~」と言って自分のことのように喜んでくれた。
 信平はこれからの進路について、あらためて考えてみた。
東京で得た情報によると、住み込みで働きながら独力で大学に入学することは「至難(しなん)の業(わざ)」だと思った。
その当時はまだまだ「ひどい就職難」で、住み込みで働けるような所は無かったようだし、あったとしても劣悪(れつあく)な条件で、大学で勉強できるような環境ではなかったようである。
「いい会社に入れてよかった」と言って誰もが祝福してくれるので、信平は「これも天命か」と思うようになっていた。
信平は両親と相談の上、大学への進学を断念し、会社に「入社承諾書」を送ることを決心したのだった。
信平は「これで安心して新年を迎えることが出来る」ことが嬉しかった。

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2006.06.17

第4章 新入社員時代

       初出勤当時のエピソード
 昭和27年4月1日に東京・本社で入社式が行われた。この時も宮野先輩に頼んで3日ばかりお世話になることにした。入社式は高卒組25名のほかに大卒組27名も一緒に行われた。
社長の訓示の後で人事部長より一人一人に辞令が手渡されたのでかなりの時間がかかった。
辞令を見ると「社員に採用、事務職一級に任じ○○工場倉庫課勤務を命ず」となっていた。
○ ○工場は父が勤務していた工場だったので、ある程度の安堵(あんどかん)感はあったものの、かすかに「東京勤務」を期待していた信平は少しがっかりしたのだった。
しかし、面接の時に「勤務箇所の希望は?」と聞かれて「どこでもいいです」と答えていたので、信平は自業自得(じごうじとく)だと思って納得(なっとく)した。
社長も出席して行われた昼食会が終わった後で、担当者から今後の日程について指示があった。
「学卒組は明日から富山工場で1ヶ月間研修を行う。高卒組は出来るだけ早く配属先に赴任(ふにん)すること」というものであった。
 信平は同じ工場の経理課に配属が決まった同級生の吉田と相談して、翌日2日の夜行列車で帰り4月4日に工場に出社することにした。
この予定を「現地に連絡していただきたい」と本社の担当者に依頼して了承を得たので、安心して東京の一日を楽しむことができた。
 予定どおり「辞令」を持って工場に出社した信平たちは、まず勤労課長の所に行って入社の挨拶を行った。
地元の工業高校を卒業して入社した縄田も来ていた。彼は技術職だったから「分析係」に配属されていた。
服装は3人とも「学生服に運動靴」。高校生時代のままだった。
その当時はまだ洋服も革靴も既製品(きせいひん)が無く、すべてオーダーメードだったから高くて買えなかった。
会社は何も言わなかったが信平は早く「背広(せびろ)が欲しいな~」と思っていた。
背広は1万2千円以上、革靴は最低でも5千円から6千円、一ヶ月の給料よりも高い時代だったから手が出なかった。
 勤労課長は担当係長を呼んで「就業規則」や「給与規定」、労働組合との「労働協約」などの説明をした後で、それぞれ配属先の課長に引き合わせてくれた。
説明によると初任給は約7千円弱であったが、これはこの地域ではセメント会社と並んで最高額だということだった。
後で分かったことだが、県下では有力な銀行の初任給でも4千500円、市役所は財政難で正規の職員は採用せず、臨時職員を僅かに採用していたが、日給100円程度だったようだ。「三白景気」の威力はすごいなと思った。
 山野倉庫課長に紹介された信平は、倉庫課の業務内容についてレクチャーを受けたが、用語もなかなか理解できなくて「この先どうなるのだろう?」と先が思いやられた。
山野課長は毛髪は薄かったが、スラットした長身にシックなスーツをまとった初老の温厚な紳士だった。
倉庫課には「製品係」「原材料係」「運輸係」の三係があり、信平は製品係に配属されて伊崎係長に引き渡された。
 伊崎係長は古参の社員だったので信平の父をよく知っていて、何かと気を配ってくれたので助かった。
その当時この工場の製品は大きく分けて「肥料」「硫酸」「その他の工業薬品」の3種類あり、それらの製品を支店や営業所という「営業部門」の指示によって、販売特約店を通してユーザーに発送するのが製品係の仕事だった。勿論、「製品の在庫管理」も重要な業務の一つであった。
製品係は植木さんという女子事務員を加えて3名であり、主なテリトリーは関西から九州までと、かなり広範囲だったので忙しかった。
仕事の分担は伊崎係長が肥料、信平が硫酸と薬品類、植木女史が係長のアシストと決められた。

      仕事の分担は決まったが
 係長から最初に指示された仕事は「送り状を書いてくれ」だった。送り状?信平には分からないので、植木女史にそっとたずねると「4枚綴りの伝票で、貨物の送り先の住所と会社名、出荷する製品名と数量を記入して、1枚は現場事務所に、1枚は運送会社に、1枚は国鉄にそれぞれ渡すのだが、あなたの仕事は3枚まとめて現場事務所の担当者に渡せばよい。残りの1枚は係りの控え」だと教えてくれた。
4枚綴りの伝票にカーボン紙を挿入し、セロファン紙をおいて鉄筆で記入するのだから、かなりの力が必要であり、なかなかうまくは書けなかった。
 このように「いろはのいの字」から教えてもらわないと何も分からないのだから、信平は「こりゃー大変だ」とつくづく考え込んでしまうのだった。
係長は「すぐ慣れるよ」といって励ましてくれたので少し気が軽くなって元気が出た。
もう一つ困ったことは地名や駅名には難解・難読の字が多くてその読み方が分からないことだった。
代表的な例は「飫肥(おび)・雑餉隈(ざっしょのくま)・沼垂(ぬったり)」などであるが、毎日「駅名一覧表」を片手に暇があれば暗記していった。
 信平は送り状を書き上げると現場事務所に持っていった。現場事務所は300メートルばかり離れた海岸にあり、20数人の人達が原材料の受払い・管理、製品の管理と出荷などそれぞれの実務を行っていた。
最初は伊崎係長と同行してみんなに紹介してもらったところ、ほとんどの人が信平の父を知っており「麻木さんの息子さんですか、お父さんにはいろいろとお世話になりました」と言ってくれるので、「父は多くの人たちに信頼されていたんだ…」と思って嬉しかった。
 この工場は明治22年に旧財閥系企業のソーダ工場として建設され、同24年に民間では初めてといわれる本格的な「硫酸工場」を建設し、60数年(昭和27年当時)を経過した今でも焙焼炉(ばいしょうろ)の火は消えずに燃え続けているという古い工場だった。
当時の硫酸工場は「鉛室式(えんしつしき)」と呼ばれる薄硫酸の生産方式で、反応釜や貯蔵槽はすべて鉛張りのタンクであり、パイプは無く「抗火石(こうかせき)」という石材を加工して半円形の溝を作り、その石を縦横につなぎ合わせて硫酸を流して運んでいた。
鉄は腐蝕するので使えなかったからである。「一種の芸術作品だな」と信平は感心した。
焙焼炉は耐火煉瓦(たいかれんが)を積み重ねて造られた大きな室を10室ばかり並べて前面に分厚い鉄の扉を取り付けた「巨大な火葬場」という感じであった。
その中で「硫化鉄鉱」という原料石を焙焼し発生する亜硫酸ガスを、硝酸を触媒(しょくばい)として水に吸着させて硫酸に化学変化させるという工程である。
信平はこの焙焼作業を見て驚いた。創業以来、摂氏1300度という高温で焙焼を続けているのだが、原料石も時間が経てば「硫黄分」が亜硫酸ガスとなって気化していくので、一定時間を経過すると原料石を取り替えなければならなくなる。
そこで焙焼室の鉄扉を開いて高温で焼け爛(ただ)れた「やけ」と呼ばれる鉱石を取り出し、新しい鉱石と入れ替えるのであるが、この超高温作業の辛さは想像を絶するものであった。
取り出した「やけ」は一旦野外の貯蔵場で保管され、温度が下がるのを待って製鉄工場に送られ製鉄の原料として使用されることになるのである。
 現在の硫酸はほとんど製鉄工場で製造されているが、当時の製鉄技術では鉄鉱石を溶鉱炉で焙焼するときに副生する亜硫酸ガスを回収する技術がなかったので、環境に悪い影響を与えていたのだが、当時は社会問題にもならなかった。
時代が変わり環境問題が社会問題として取り上げられるようになったために、製鉄工場も真剣にこの問題と取り組み、当時の硫酸製造技術を取り込んで工程を逆にしたのだった。
つまり、先に鉄鉱石の硫黄分を取り出して硫酸を造り、残りの鉄鉱石を使用するのではなく、「硫化鉄鉱石」のまま溶鉱炉に放り込み、発生する亜硫酸ガスで硫酸を造るという技術を開発したのだ。
ここで硫酸業界は焙焼メーカーと副生メーカーに別れるのだが、コスト面では圧倒的に副生メーカーが強く、焙焼方式は自然消滅的に淘汰されてしまうことになるのであった。
 このような特殊な設備は風雨に曝(さら)すわけにはいかないので、設備全体を一つの上屋に納めるのだから巨大な建物になる。
しかも「硝酸」を使用するので小さな煙突から常時「亜硝酸ガス」という黄色い煙を吐き出しているのだから大変だ。
工場のそばをバスで通ってもガスの刺激臭(しげきしゅう)でみんな「ゴホン・ゴホン」と咳(せ)き込んでいた。
しかも工場に接する産業道路を挟(はさ)んですぐ民家が密集している立地であるから、今では想像も出来ないような悪い環境であった。
しかも巨大な建物一面は漆黒(しっこく)の塗料で塗りつぶされているのだから「巨大な化け物屋敷」に見えるのだった。
だから会社は「硫酸会社」と呼ばれ、この辺りは「硫酸町」と呼ばれていたが、この工場が建設された後に町が出来たのだから誰も文句は言えなかったようである。
硫酸の輸送はほとんどが専用のタンク車で国鉄の側線から出荷されるのだが、小口のものは「硫酸瓶」と呼ばれる「陶器の甕(かめ)」に詰めて出荷していた。タンクローリーが出現したのはそれから2~3年後のことだった。
この工場には少し離れた所に硫酸瓶を作る「製陶(せいとう)工場」も有ったので、工場の総面積は10万坪を超える大工場であった。
 この国宝級の硫酸製造設備も、2年後に「自社技術の粋(すい)」を結集して建設された「接触式濃硫酸製造装置」に取って変わられるのであるが、これも間断(かんだん)なく「新しい技術」を追い求める化学工業の宿命であり、仕方ないことであろう。

     未成年者でも「酒を飲め!
 朝鮮戦争のお陰で経済的にも潤(うる)おいつつあった日本は、これから本格的な経済成長期に入っていくのであるが、国策の重要課題は依然として「食料の増産」だったから、肥料はいくら造っても足りなかった。
進むインフレも手伝ってか「肥料一升、金一升」と揶揄(やゆ)されるような状態だったから、工場も活気が溢れていた。
この工場は「過燐酸石灰(かりんさんせっかい)」という燐酸肥料と化成肥料を製造していたので、本社の指示は「合わせて月産1万トンを達成すること」であった。
だから、製造も大変だったが出荷も大変だった。運送手段は国鉄をメインにして機帆船(きはんせん)やトラックを使ってフル回転だった。
当時の国鉄の輸送能力は経済成長に追いつけず、貨車が不足していたので各企業の要請に応えることが出来ない状態であった。
工場の運輸係長は貨車の割り当てを増やしてもらうために、となり町にある国鉄の配車部に日参していた。
したがって、肥料の原料でもある硫酸の需要も旺盛(おうせい)になり信平の仕事も大いそがしだった。
硫酸の生産状況を確認しながら、営業部から出てくる販売計画と対比して、タンク車と瓶詰めの出荷計画を作成しなければならないのだが、いつも生産が追いつかず頭を抱える毎日であった。
 このような状況だから、二社入っている運送会社も「ほくほく」であった。
週に一度は「慰労会」といって酒席を設けてくれていたので、信平も声を掛けられて同席していた。それもほとんどが料亭である。
信平は未成年者だったから少しひけ目はあったが、上司は「気にするな」と言ってくれたので気が楽になった。その当時は15歳を過ぎると大人扱いだった。
しかし酒を飲んだ経験がない信平は要領が分からず、奨(すす)められるままに杯(さかずき)を干していたので、いつも悪酔いして嘔吐(おうと)していた。
それでも誘いは断れずお付き合いしていたが、さらに強力なスポンサー?が現れた。機帆船の船長である。
工場に専属している機帆船は3隻いたが、ほとんどの仕事は信平が担当している瓶詰めの硫酸や工業薬品類の輸送だったので、時々声を掛けられていた。
彼らは40トン前後の小さな機帆船を、焼酎のビンを片手に持って飲みながら航海するのであるから、酒は食事代わりだったのだ。
だから、一緒に飲むときも「一気飲み」もいいところで、ガブガブ飲みながら信平にも急ピッチで杯が指(さ)されるので「もう参った!」といって杯を横に置くと「俺の酒が飲めないのか!!」と言ってまた飲まされるのだった。
そして「もう一軒行こう」と言われて手をがっちりとつかまれると、信平の力ではどうしようもなく、「どうにでもしてくれ!」という思いでついて行くだけであった。
 しかし信平は酒好きである父親の血を受け継いだのか、だんだんと酒に強くなり好きになっていった。麻雀を覚えたのもこの頃だった。
このことが何年か後に営業部に配属された信平にとって「強力な武器」になるのだが、その時には思ってもみなかった。

      平田も就職していた 
 それからは、時々現場の若い人たちともプライベートで飲みに出るようになっていた。
仕事にもいくらか慣れて信平にも少し落ち着きが出始めた頃、しばらく疎遠になっていた小さい時からの同級生・平田が突然工場を訪ねて来たので驚いた。
仕立ておろしの背広にネクタイを締めて「スキの無い紳士」といった出で立ちだった。
信平は詰襟(つめえり)とはお別れして今は若者向きのジャンパー姿であったが、工場勤務だからひけ目はなかった。
「どうしたの?」と信平がたず尋ねると、彼は胸のポケットからおもむろに名刺を取り出して、「親父の会社に勤めているんだ」と言った。
信平がその名刺を見ると「○○化学工業(株)特約店・竜王産業株式会社」と印刷されていた。お父さんが退職して下関市で開業したとのことだった。
信平も懐かしかったので会社が支給してくれた名刺を渡していろいろと話し込んでいた。
彼も長年工場の社宅で生活していたので、工場の従業員にも顔見知りが多く気楽に出入りしていた。
話を聞いてみると、扱い品目は硫酸をはじめ写真の定着剤や殺虫剤が主要な品目であり、すべて信平の担当であった。
そういえば「竜王産業扱い」で何枚か伝票を書いた記憶があったが、まだ開業早々で扱い高は少なかった。
「時には下関にも遊びに来いよ」と言って平田は帰っていったが、信平は「その内に…」となま生返事して送り出した。
 それから間もなくして平田から電話がかかってきた。「赤間神宮の祭りには一席設けるので是非遊びに来てくれよ」というものだった。
ここは安徳天皇の祭神で平家一門の墓所もある古式豊かな由緒(ゆいしょ)あるお宮であった。
「先帝祭(せんていさい)」というお祭りは近郷でも有名であり、「関の先帝、雨が降らなきゃ金が降る」といわれるほどの人出があった。
いろいろと出し物は多かったが、中でも「源平合戦」や「花魁(おいらん)道中」は立錐(りっすい)の余地も無いほどの見物人で溢れかえっていた。
信平も小さい頃に何度か連れて行ってもらった記憶はあるが、戦争が激しくなってからは行ったことが無かったので「行きたいね~」と返事をした。お祭りは5月始めの連休だったので日時を決めて下関に行ってみた。
このお祭りは「雨が降る」ことでも有名だったが、その日も午後から降り出した雨は夜まで上がらなかった。
約束の時刻の午後3時に下関駅で落ち合ったが、雨では仕方がないので料亭に直行した。
その店は平田の会社がよく使っているらしく、女将(おかみ)や仲居(なかい)とのやり取りも馴れたものだったので、平田の成長ぶりに信平は驚いたり安心したりだった。
彼も酒が強かった。二人とも久しぶりに会ったので話も弾み酒も弾んだので信平はかなり酔っ払ってしまい、その日はその料亭に泊めてもらう羽目になってしまった。
二人ともまだ「未成年者」だった。ツケは会社に回したのだろう。

       信平のアフターファイブ
 工場の勤務時間は午前8時から午後4時までだから、厳密にいえば「アフターフォー」ということになるが、今様(いまよう)に逆らうこともないと思うのでご容赦(ようしゃ)いただきたい。
少しづつ仕事に馴れてくると気分的に余裕が出てくるせいか、余暇をどうするかということになる。
特に「遊び好き」の信平は遠距離通勤であるにもかかわらず、真っ直ぐに帰路につくことは考えてもいなかった。
時々は高校に行ってバスケの後輩たちの練習を見ることもあったが、本当は自分もやりたかっただけである。
工場にはテニスコートと卓球台はあったが、バスケットコートは無かったので、仕方なくテニスを始めることにした。軟式テニスである。
安いラケットを買って始めたのだが、最初のうちは面積の大きいラケットに球が当たらないから不思議だ。
信平は「手先が不器用なオレは、道具を使うスポーツはダメなのか?」と落ち込んでいたが、吉田も一緒に始めたので仕方なくテニスを続けていた。
高校ではスポーツをやっていなかった吉田がメキメキと上達するのを見て、信平はますます落ち込んでいったのだった。
昼休みにもみんな一生懸命に練習していたので、信平も仲間に入れてもらって頑張った。
2年先輩で工業高校出身の殿山さんはテニスが上手だった。色黒で体が頑丈な彼はラリーも上手だったが、前衛としての勘も鋭くボレーもスマッシュもそつなくこなしていて、かっこ良かったので信平も前衛がやりたくて彼に教えを乞うことにした。
 アフターファイブには毎日テニスコートで汗をかいていたが、信平の前衛もどうにか板についてきたようだった。
テニスをやるもう一つの楽しみは、終わった後に居酒屋でビールを飲むことだった。汗をかいた後のビールのうまさはなんとも言えなかった。
殿山さんも酒好きだったので信平とはすぐに意気投合して「親友」になり、よく飲みに行っていた。遅くなって彼の家に泊めてもらうことも再三であった。
 このような生活を続けている信平にとって、遠距離の汽車通勤は億劫(おっくう)になってきたので「下宿生活をしたい」といって母に頼んだが、なかなかよい返事はくれなかった。
信平は初月給は袋のままで全部を母に渡したところ、母は涙を流しながら神棚に上げて手を打ってくれたが、その後は信平もいろいろと出費が必要になったので、母に渡す金額が少しづつ減っていた。
そんな中で信平が下宿すれば家への仕送りはほとんど期待できないと母は考えたのであろうと思う。信平はそれ以上のムリは言えなかった。
 しばらく経って母から言われた「社会に出たばかりの若い者に不自由な思いをさせて申し訳なかった。よい所があれば下宿しなさい。ただ3人の妹たちにも不自由な思いをさせているので、時々は幾らかでも小遣い銭を上げて欲しい…」と。信平はこの時ほど母の愛情の深さを感じたことはなかった。
信平は下宿を始めたので時間的には余裕が出来たが、経済的には楽にはなれなかった。
下宿代は2食付で約4千円だったから、残り3千円ばかりで身の回りのことと遊興費を捻出しなければならなかったのだから。
母にはこれ以上迷惑は掛けられないので、信平は歯を食いしばって頑張った。

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2006.06.18

労働組合員になった

       労働組合員になった
 3ヶ月間の試用期間が過ぎると労働組合員になった。
会社の規定では入社後3ヶ月間は「試用期間」として扱うことになっていたので、労働組合には入れなかった。
労働協約では「ユニオンショップ制」を標榜(ひょうぼう)していたので、社員全員が労働組合に入らなければならなかった。
労働組合は戦前にも存在していたが、戦時中の翼賛(よくさん)政治体制の中で「結社(けっしゃ)の自由」が禁止されて非合法組織になっていた。
 戦後、新憲法のもとで労働基本権が認められ、アメリカの占領政策も労働組合の結成を支援し、企業もそれに呼応(こおう)して積極的に労働組合の結成を奨励(しょうれい)したので、多くの労働組合が誕生した。
しかし、各労組の主導権争いによって「全国的組織」は群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の状態となり、一本化は困難であった。
労働省の資料によると、昭和28(1953)年6月末現在の労働組合員総数は約593万人、全国的組織は、日本労働組合総評議会(総評・約330万人)、全日本労働組合会議(全労・約25万人)、その他三団体となっているが、全国組織に加盟していない組合も多数あったようである。
化学工業会社労組の多くは上部組織として「合成化学産業労働組合連合会(合化労連・総評系)」に加盟していた。勿論、信平たちの労組も加盟していた。
信平は労働組合に関する予備知識は皆無(かいむ)だったので、どんなことをする組織かよく分からなかったが、その当時は「賃上げ闘争」がメインであったようだ。
経済が成長する過程で生活物資も徐々にではあるが豊富になりインフレも昂進(こうしん)するので、生活レベルの向上と、賃金とインフレとのギャップを解消するために労組も先鋭的にならざるを得ない事情もあって、ストライキも多発する時代に突入していた。
信平たちの労組も合化労連の指導により、他の労組と統一行動をとって「闘う労組」に変貌(へんぼう)する時期でもあった。
信平が入社した当時はすでに「労働協約の更改」につて闘争状態にあり、それに4月の「賃上げ要求」が絡(から)んで、5月には労組結成以来初めてといわれるストライキが10日間にわたって行われたが、信平はまだ労組員ではなかった。
 しかし、昭和27年後半から朝鮮戦争が膠着(こうちゃく)状態に入り、戦争特需が下降線をたどる中で日本経済も低迷し、化学産業も激しい競争にさら曝される時代に入ったので、否応なく「合理化」というテーマと取り組まざるを得なくなっていた。
特に信平たちの会社は「国策会社」の集合体であったので、国家の統制に守られてさしたる経営努力をしなくても経営は維持できたのであるが、いつまでも「ぬるま湯」に浸(ひた)っている場合ではなくなっていたのである。
企業側も将来にわたって「厳しい合理化政策」を実現するためには、対労組戦略も対立的にならざるを得なかった。
これに対して昭和27年に総評が打ち出した「総資本と総労働の対決」という指導方針は、労使の対立をますます激化させていった。
さらに、昭和30年2月に「日本生産性本部」が設立されて「生産性向上運動」が鳴り物入りで推進されるようになると、総評系の労組はますます先鋭的な行動をとるようになってきた。
信平は3ヶ月の試用期間を経て7月1日に労働組合の一員となったのであるが、この日は会社の創立記念日で「休日」だった。
この年の闘争中には労組の組織内に「青年婦人部」が設けられ、若年層と女性の地位向上が目的だといわれたが、真の狙いは「青年行動隊」として闘争の前線に立たせることだったようである。勿論、信平も青年婦人部に編入された。
    
      信平、労組の役員になる
 信平の仕事は順調であったが、業績が低迷していく中で「高賃金」の維持は困難になり、労使の対立はますます激化していった。
昭和28年春の賃金交渉では、組合側の2千円ベースアップ要求に対し、会社側は初めてゼロ回答を出したのである。組合側はこれを組合に対する侮辱(ぶじょく)であり、挑戦であると受け止め、4月になってストライキに突入した。
このストライキは56日間という長期にわたったばかりでなく、組合は化学工業の心臓部ともいうべき硫酸製造装置を急に停止して設備の損壊(そんかい)を引き起したので、会社はロックアウト(工場内への立ち入り禁止)や警察力の導入で対抗するという最悪の事態に陥(おちい)ったのである。
会社は同年5月、このような労組のストライキを「不当なストライキ」であると断定し、鏡(熊本)、大和田(大阪)両工場の人員整理と、争議中の不法行為責任の追及を通告したので、争議はますます対立が激化し混迷の度合いを深めていった。
ストライキが肥料の需要期に行こなわれたために、肥料商や農協をはじめ、関係の得意先から出荷の催促(さいそく)が殺到、需要家が製品を引き取るためにトラックで工場に押しかけてくる現象も再三であった。
出荷担当である信平の所にも連日多くの関係者がトラックを連ねて殺到するのだが、製品の在庫は無く信平にはどうする事も出来なかったので、ただ頭を下げるだけであった。
この時は製造部門だけの部分ストだったので信平は対象外で出勤していたが、こんな事になるのなら全面ストに切り替えて欲しいと思った。
 28年6月、会社側が鏡、大和田両工場の人員整理をひとまずタナ上げにし、職能給の500円引き上げ、定期昇給繰上げを含む賃上げを回答したことで、56日間も続いたストライキは一応解決した。
しかし、労使の対立が完全に解消したわけではなく、一旦タナ上げした前記の合理化案はくすぶり続け、一触即発(いっしょくそくはつ)の状態だった。
会社の業績は昭和30年をピークにして下降線をたどり続け、歯止めがかからない状態になっていた。
そのような背景の中で昭和31年、信平は労組・青年婦人部の幹事に選出されて労組の役員になったのだった。

       家族一緒の生活へ 
 昭和29年は造船疑獄(ぎごく)事件で幕が開いた。
これは「外航船建造利子補給法」の制定をめぐる贈収賄及び特別背任事件であり、1月15日、東京地検が山下汽船の横田社長を贈賄容疑で逮捕したことをきっかけに、逮捕者71人を出した疑獄事件である。
政界側では自由党の佐藤栄作幹事長(後に首相)、池田勇人政調会長(後に首相)の収賄容疑が濃厚になり、検事総長は佐藤の逮捕許諾請求を吉田内閣の犬飼健法務大臣に請訓(せいくん)するが、犬飼法相は「指揮権発動」で逮捕見送りを指示した。
まさに、「日本の法治国家が崩壊した瞬間であった」と言われている。
 信平にとっても、いろいろな変化はあったが「まずは平穏無事」という年であった。
夏のボーナスは「こんなに貰ってもいいのかな?」と思うほどの金額だった。信平はこんな大金を手にしたのは「生まれて初めて」の経験だった。
それと、製品係を2年間経験した4月、倉庫課で業務の担当替えが行われ、信平は原材料係に転属になった。
原材料係の業務は大きく分けると肥料原料・硫酸原料・薬品原料・包装材料・貯蔵品の5部門だった。
信平はその中の薬品原料と包装材料の2部門を担当することになった。かなり大きなボリュームである。
薬品原料はそれ程でもなかったが、包装材料は品種が多くボリュームも圧倒的に多かったので「これだけこなせるのか?」と不安だった。
当時の肥料の包装はカマス(藁で編んだ袋)であり、常時在庫量も何十万枚単位だから在庫数のチェックが大変である。
毎年社内監査があるたびに、在庫品の数が一目で分かるように整理し、計算表を明示しておかなければならないので「監査」の都度(つど)悩んでいた。しかし、信平には忙しい中にも充実感があった。
 さらにこの年は「社宅」を借りることができたのだ。
硫酸瓶を造る製陶工場の津村工場長は父と同年代で親しい間柄だったので、信平のことも気に掛けてくれていた。
信平も仕事の関係で製陶工場には時々打ち合わせに行っていたので、気楽に話ができる人だった。
ある日信平が製陶工場を訪問すると、工場長から突然「社宅が空いているので入らないか?」と切り出されので、驚いて怪訝(けげん)な顔をしているると、工場長は「ここも人員整理で人が減ったので一軒空いているんだ」と言って「もしよかったら厚生係に話して上げるよ」と言われたので、信平は大喜びで「お願いします」と言って頭を下げた。
社宅は二軒続きではあったが、かなり広く門構えのある立派な家だったので、「これなら家族と一緒に生活できるな」と思って嬉しかった。
規定では独身者には社宅の貸与はできないのだが、製陶工場の社宅だから例外措置として厚生係も承諾してくれたので、信平は下宿生活に別れを告げて早速転居することにした。となりの人は下関支店に勤務していた。
津村工場長は「これで少しは親孝行できるな」と言って嬉しそうに笑っていた。
早速家に帰って両親に報告したところ、二人とも大喜びであった。勿論、妹たちも異論はなく喜んでくれたので信平は安心した。
 その後で母が一通の小さな郵便小包を渡してくれたので開いてみると、高校時代に一緒にバスケをやり、ボートに乗った石田真由美さんからだった。
手紙を読んでみると「2年間洋裁の勉強で上京していたが、帰ってきたので機会があれば又お会いしたい」というような事が書いてあり、「伊豆に旅行したときに買った」という「小さな潮汲(しおくみ)人形」が同封してあった。
信平は女性から手紙を貰ったのは初めてであり、その上プレゼントも同封されていたので舞い上がったような気分であった。
一応、近況をしたためた返信を送っておいたが、「胸がときめく」とはこのことだろうと思っていた。
 4月に会社は、2年間にわたった争議による「労組側に対する責任追及」を撤回(てっかい)したので、労使関係はようやく正常化された。
 
       太陽族の出現
 昭和30年代になると、世の中の景色は舞台が反転するように様変わりしたようだった。
この年の経済白書は「もはや戦後ではない」といって、将来に向けても「揺(ゆ)るぎない経済成長」を確信し、テレビや電気洗濯機・電気掃除機などの普及も進んで、明るいムードが漂(ただよ)っていた。
そのような世相の中で、石原慎太郎氏が発表した著書「太陽の季節」は、第1回文学会新人賞と第34回芥川賞を受賞して、日本中に一大センセーションを巻き起こしたのである。
長い間、日本人が持っていた「抑制的な性」に対する道徳観や価値観の基準を180度転換し、「開放的な性」へと革命的な変革がもたらされ、戦後世代の性風俗や新しいモラルを提示して、一種の「青春群像」を作り上げていったのだった。
しかし、この変革は50年を経過した現代の「モラルなき性」を誘発する原点になったことは間違いなく、その功罪の評価は分かれるところであろう。
石原氏と同年代の信平も早速読んでみて驚いた。「こんな世界があるのか?こんな価値観があるのか?」と考え込んでしまったが、地方の若者も東京から発信される若者のファッションや行動に影響されずにはいられなかた。
マンボズボンにアロハシャツ、未成年者が慎太郎刈で女性と一緒に高級車を乗りまわし、酒を飲みタバコをふかす姿を見て「異国」に来たような錯覚(さっかく)を覚えるようだった。
信平はバスケをやっていたので高校生の頃から、頭髪はスポーツ刈にしており違和感はなかったがマンボズボンにはやはり憧れた。

       ジャズバンドを結成 
 青年婦人部(青婦部)の幹事を勤めていた信平は昭和32年度の役員改選で部長に選出された。副部長は同じ高校の2年後輩だった経理課の里見涼子さんに決まった。
彼女は小柄だったが、何事にも積極的で努力家だったので信平は喜んでいた。
発足以来、さしたる争議もなかったので、青婦部の日常活動はサークル活動が主体となり、中でも「うたごえサークル」が全国的な広がりを見せていた。
当時は「ロシア民謡」の全盛期で、都会では「うたごえ喫茶」が流行して盛り上がっていた。
信平たちの「うたごえサークル」も女性を中心に、積極的に活動していたので、信平は「男子中心のサークル」も必要だと思って幹事会で相談したところ、「会社に有る楽器を借りてバンドを結成したらどうか?」という意見が出て、賛成者も多かったので会社の了解を取り付けて「素人バンド」が誕生したのだった。
 楽器は古かったがドラムス一式をはじめ、コントラバス・トランペット・サキソフォン・クラリネットなどがそろ揃っており、小さなバンドを結成する条件は整っていた。
希望者を募(つの)ったところ、青婦部員ではなかったがコントラバスの経験者である広中さんが手を上げてくれたので結成にはずみがついた。
他には経験者がいなかったので信平は説得に歩いた。まず同期入社の吉田を口説いたところ「サキソフォンをやってみよう」と承諾して、となりの席にいた2年後輩の古谷を説得してくれた。古谷は「トランペットをやろう」と言った。
後はクラリネットとドラムスである。何人か当たったところで薬品課の大下さんがクラリネットをやることを承諾してくれた。彼は山形県の出身で王子(東京)研究所から転勤して来た技術屋さんだった。
ドラムスはどうしても決まらなかったので「どうしよう?」とみんなにはかったところ、「麻木しかいないよ!」と言って逆に口説かれた。
信平は気が進まなかったが「楽譜が読めなくてもなんとかなるよ」という、広中さんの意見に逆らえずしぶしぶながら引き受けることにしたので、ようやくバンド結成が実現したのである。
音楽的素養のない信平にとって練習は苦しかったが、週に2度は合同練習を行ったので、みんな徐々にではあるが上達していった。
信平はみんなの積極的な協力に心の中で感謝していた。

        天皇・皇后両陛下、工場へお成り
 昭和31年4月、防府市で行われた国土緑化大会と植樹行事にご臨席のため、山口県に行幸啓(ぎょうこうけい)された昭和天皇・皇后両陛下は、県下11箇所の工場・公共施設を視察されたが、その一つに信平が勤務している化学工場も選ばれたのである。
同月8日、工場にお着きになった両陛下は、末松社長以下従業員一同の大歓迎の中で工場を一巡、興味深くご視察された。
工場の従業員はもとより、全市民の感激もひとしおであったが、その中で信平が体験した貴重なエピソードを付け加えておきたい。

(1) 駅の改札口を拡張
いきなり失礼な話ではあるが「皇后陛下の堂々たるお体は駅の改札口を通れるだろうか?」という疑問が何処 からともなく出てきたようで、当事者である国鉄も気にして真剣に検討した結果、「念のために拡張しておこう」ということになったようである。
当時、田舎の小さな駅の改札口は小さな木製の枠で出来ており、普通の人が一人ようやく通れる程度のお粗末なものであった。
そのために急遽(きゅうきょ)拡張工事が行われ、小さな木造の駅舎には似つかない「コンクリート造り」の立派な改札口が出来上ったのだった。

(2) 山野課長の感激ぶり
両陛下をお迎えするために、工場の事務職を中心に役割分担が決められ、信平は山野倉庫課長をキャップとする「警護班」に編入された。
この役目は文字どおり「両陛下の身辺警護」であるから、駅までのお出迎えから巡察コースに添ってお供をし  なければならないのだ。
勿論、駅から工場までの警護は警察の仕事であるが、お迎えする工場も協力しなければならない。
社長・工場長と一緒に駅までお出迎えした信平たち数人は工場の乗用車に乗り込み、先導する白バイの後に続いて工場までご案内したが、当日は生憎(あいにく)の雨で足元が覚束(おぼつか)ない状況であった。
ご休息される応接室がある事務所の前で、山野課長以下工場の幹部がそろってお出迎えし、信平たちは傘をさし掛けて両陛下を雨からお守りするのであるが、ひどい雨足に小さな水溜(みずたま)りが出来て陛下の靴やお足元が濡れるのを見た山野課長は、あわてて胸のポケットからハンカチを取り出して天皇陛下のお足元にさし出したのである。

一枚ではどうしようもないのであるがとっさのことで自然に身体が反応したのであろう。
山野課長の狼狽(ろうばい)ぶりを見た信平は不謹慎(ふきんしん)ながら、おかしさが込み上げてきて、笑いをこらえるのに必死であった。
これは山野課長の感激ぶりを如実に物語るものであり、後々まで語り草になっていた。
信平も両陛下のお側近くで「身辺警護」という大役を勤めさせて戴いている感激に身が引き締まる思いであった。このことは、信平にとっても生涯忘れることが出来ない想い出として脳裏(のうり)に焼きついている。

(3) 専門家顔負けのご質問
工場内のご巡察は社長と工場長が先導し、各工場には担当課長と係長クラスが控えていてご説明するのだが、なかなか鋭いご質問もあり一同感服していたようである。
信平たち警護班も周囲に気を配りながらお供するのであるが、ご質問を聞いていて天皇陛下の博識(はくしき)ぶりに驚いた。

特に硫酸工場にご案内したときである。この工場は自社技術だけで建設した「接触式濃硫酸製造設備」で、日本では初めてといわれる新鋭の硫酸工場であった。
その時点では日本で「一番古い硫酸工場と、一番新しい硫酸工場」が並んでいたのである。
その一番新しい硫酸工場の説明を聞かれた後であった。
「この製法は『転化触媒(しょくばい)』に何を使っているの?」というご質問があったので、社長以下ご説明役の技術屋さんたちに「ハッ?」という緊張感(きんちょうかん)が漂(ただよ)っていた。

接触式硫酸設備の特徴は、亜硫酸ガス(SO2)を硫酸ガス(SO3)に転化する時に、触媒として稀少(きしょう)金属類を使用するのであるが、それが『何か?』をご質問されたのである。
これは並みの知識では出来ない質問である。
「それは酸化バナジウムです」と工場長がお答えすると「あっそう」という、ニュースの報道などで聞きなれたお言葉が返ってきたので一同ほっとしたようだった。
  

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2006.06.19

過酷な合理化で労使の対立が再燃

       過酷な合理化で労使の対立が再燃 
 会社の業績は30年をピークに下がり続け、33年11月決算では遂に欠損を出すほどに悪化していた。
昭和32年から38年にかけて総合化学工業界は世界的な流れの中で、旧来の「酸・アルカリ」をベースにした無機化学から、石油化学系有機化学への転換が迫られ、各社とも時流に乗り遅れないために、歯を食いしばって近代化の投資を競っていたので、常に莫大(ばくだい)な投資が先行し売り上げは増える反面利益は低迷してた。まさに「利潤無き繁栄」である。
そのために、各社とも積極的に構造改革に取り組んだので、化学工業界には「合理化の嵐」が吹きまくり、労働争議も否応無く激化していった。 
 信平の会社も32年から38年にかけて、各工場の合理化案と本社組織の改革案を次々と労組に提示したので、労組としても簡単に承諾するわけにはいかなかった。
工場の移転や一部分の休止など、人員整理の伴わない合理化については条件闘争で解決していったが、33年7月に提示された「伏木(富山)・鏡(熊本)両工場の全面閉鎖、名古屋工場の肥料と薄硫酸の生産中止、これらに伴う希望退職の募集」については、強く反発して「ストライキ権の行使」を通告、争議状態に入った。
この時、信平は青年婦人部長の任期が終わり、労組支部の執行委員に選出されていた。
この時期は合化労連傘下の多数の組合が合理化による「人員整理」の通告に反発して、全国的な規模で激しい争議が行われていた。
さらに「総資本対総労働の対決」という論理が持ち込まれ、企業側は「先鋭的な労組の弱体化」というもう一つの政治的な目的を持ち込み、強硬的な姿勢を崩さなかったので、混乱はますます激しさを増していくのであった。
信平たち青婦部員は労組の「行動隊」としての役割を与えられて対象工場の支援活動に参加、抗議活動や工場の出入り口でピケ隊の応援なども行っていた。
首都圏支部の青婦部員は連日本社に対する抗議活動や、本社ビル前のビラはりを行い、ピケットラインにも参加していた。
加えて他労組からの支援行動も活発になり、総資本対総労働の対決は未曾有(みぞうう)の激しさとなっていった。
 6月に始まったこのストライキは、「神武景気」といわれる好況の中でも、会社の業績が悪化し続ける事態に労組員も不安を高めたため、執行部もようやく事態の収拾に動き始め、132日に及ぶ長期ストライキを経て10月29日にようやく労使の交渉が妥結したが、全面的に終焉(しゅうえん)したのは1ヶ月以上も後であった。
「総資本対総労働」の対決は、労組を「企業内」に閉じ込めようと目論(もくろん)だ会社側と、「産業別組合」に脱皮しようとした労組側とのせめぎあいであり、意地の張り合いでもあった。これを契機に「企業内組合」への回帰が加速、産業別連合体や総評の影響力が薄れ、やがて「総評・全労」が解体されて現在の「連合」へと変遷(へんせん)していくのである。
この「労使協調路線」は、経済の高度成長時代には強力な推進力となったのであるが、経済が成熟期に入ると、労組は組織の「目的と目標」を見失って形骸化を加速していった。
この結果は労使ともに大きなダメージを受けることになったが、お互いに反省すべきことはたくさんあるはずでる。一番大きなダメージを受けたのは従業員であった。
 昭和32年から33年にかけて青年婦人部長の信平と副部長の里見さんは、はじめて経験したストライキや抗議活動は勿論、サークル活動や部の運営についても助け合って一緒に行動していく中で、お互いの信頼関係が高まってきたことを感じていた。
また、家が同じ方向にあったので、時々同じバスに乗り合わせることもあり、親密の度合いが徐々にではあるが深まっていくこともお互いに確信するようになっていた。
その内に、二人で映画を見たり、行きつけの居酒屋でコップ酒を飲みながら、組合活動や仕事のことで議論することもあった。
しかし信平は経済的に貧しい家庭のことを考えると、3人の妹が片付くまでは「恋愛感情は持てないぞ」と自分自身に言い聞かせていた。
信平は余暇をバンドの練習やテニスを中心に酒や麻雀で気持をまぎらわせていたが、なんとなく内心はさびしい思いもあった。
 この当時は社交ダンスが大流行していたので青婦部が主催して、近所の教習所に「ダンス教室」を開いてもらっていた。
なんとか「ダンス」といえるところまで上達したところで、「闘争資金の調達」という目的もあって、ダンスパーティを開催することになった。
バンドもかなり上達して演奏力もついたので「リズムフレンズ」と命名し、ユニフォームもそろえて出番を待っていたので、ダンスパーティへの出演が初舞台となった。
自信があるレパートリーは5曲くらいしかなかったが、それにしてもよく成長したものだと、みんな感心していた。
パーティの当日、信平は会社の業務で福岡に出張したので、少し遅れて会場である労働会館に着いたが、パーティはすでに始まっていた。
 信平は間合いを見て挨拶に立ち、「闘争資金の調達」という趣旨を話して参会者の協力をお願いした。
浄財は相当額集まって大成功であったが、信平にとってハプニングが起きた。
バスケの仲間であった石田真由美さんが参加してくれていたのだった。
彼女もダンスが好きでオールナイトのパーティにも時々行っているようだったので、信平にも声がかかったが、信平はダンスに自信がなかったので生返事を返して、近いうちの再会を約して別れた。
 昭和33年の5月頃だったと思う。終業前に殿山さんから社内電話で「今日は一杯付き合えよ」と言ってきた。信平はいつものとおり「いいよ…」と返事して、行きつけの居酒屋に行った。
    
       結婚します
 最初はいつものように組合活動のあり方について議論していたが、突然、彼の口から「オイ、お前は涼子ちゃんのことをどう思っているのか?」と詰問調(きつもんちょう)で言われたので、
信平はとまどって「どういう意味!!?」と切り返すと「彼女の気持ちも分かってやれよ」と言って、里見涼子さんから相談を受けたことを話してくれたのだった。

 その話によると、里見さんは「麻木さんとは組合活動をきっかけに、いいお付き合いをさせてもらっているが、出来れば結婚したいと思っているので、彼の本当の気持ちを聞いて欲しい」とのことだった、と言って「お前の本心を聞かせてくれないか」とたたみかけられた。
信平は「僕も同じ思いだが…・」と言って、家庭の事情でふん切りがつかないことを説明したが、殿山さんは「二人で共稼ぎすれば経済的な問題は解決できるだろう?」と言って信平の決断をうながしたのだった。
信平は「分かった。両親とも相談してみる」と言ってその場は終わったが、その後は二人で夜更けまで飲み続けていた。

 信平は両親にこのことを相談したが、いい知恵が出るわけではなく「いいお話だから反対は出来ないが、先様のご両親はどう思っておられるの?」と反論されたので、信平は「確かめてみる」と言ってその場は納まった。
後日、信平は里見さんにこの話を伝えると「ご心配かけてすみません。両親の方は私が責任をもって承諾させます」と明るい表情で答えてくれたので信平はほっとした。こうなれば、後はとんとん拍子(びょうし)だ。
信平は上司の今泉室長にこのことを相談して、「仲人役」をお願いした。
申し遅れたが、信平はこの4月の異動で新設の「管理室」に配属されていたが、このことについては後段で詳述する。

今泉室長は「分かった。その気持ちは変わらないのだな」と念押しした上で引き受けてくれたのだった。
室長も学生時代に恋愛して、そのまま学生結婚した人だったので物分りはよかった。
数日後、室長から「里見家に行ってきたよ」と言った後で「ご両親に経緯(いきさつ)を説明してお願いしたところ「なにぶんよろしくお願い致します」ということだった。「おめでとう」と言って祝福してくれたので信平は重い肩の荷がおりたような思いだった。
信平たち二人は相談して、来年(昭和34年)3月21日の挙式を決定し、周囲の人たちに祝福してもらったのである。
この頃、皇太子・明仁(あきひと)親王と正田美智子さんのご成婚の話しで日本中が湧き返っていた。

         企業はソフトの改革も必要だ 
 昭和25年頃から「経営管理の改革が必要」という風潮が高まり、信平の会社も30年頃から「品質管理」の導入が日程に上ったが、まず「従業員の教育が必要」ということで、「SQC(統計的品質管理)」の勉強会が始まった。
信平も指名を受けて勉強会に参加したが、初めて出会った学術的なテーマにとまどいは隠せなかった。
講師は九州大学出身の和田薬品課長と、後に信平の上司となる京都大学出身の今泉肥料係長だった。
ご両人とも旧帝国大学卒の大変な勉強家であり、熱心に指導されたので勉強会は盛り上がっていった。
信平も遅れをとらないようにと頑張っていたので、なんとかついていくことが出来たようだった。
SQCの他にもアメリカで生まれた「オペレーションずズ・リサーチ(OR=作戦計画)」や「リニアー・プログラミング(LP=線形計画法)」などの科学的管理法といわれる、経営管理手法が矢継早(やつぎばや)にアメリカから輸入されてきた。
どれも「経営管理手法」として重要な分野であるが、総合的に導入しなければ成果が出ないのである。
本社もこのような機運を察して「工場にも総合的にプロモートできるセクションが必要」という認識を示し、昭和33年4月1日付けで工場長直轄の組織である「管理室」を新設した。
初代室長は今泉さん、信平は今泉さんのご指名によって転属することになったが、室員はほかに一人、女子事務員の島村さんだけという小さな所帯でスタートしたのだった。
 新設されたポストだからビジネスモデルもなく手探りの状態だったので、今泉室長は「とにかくいろんな事を勉強しよう」と言って、「必要な参考書があればどんどん買うから言ってくれ」そして「種々の講習会には積極的に参加しなさい」という指示を出した。
しかし、何か仕事らしい事もしなければならないので、各製造現場に「品質管理図」の導入を提案し、責任者の承諾を得た上で、技術スタッフと現場監督者の指導に入った。
 どの企業も同様であったが、当時、生産管理の原点である「品質管理」は「管理図による統計的品質管理=SQC」からスタートし「総合的品質管理=TQC」へ、そして「QCサークル」へと発展し、その理念を全社的に普及させていったのだった。
現在では「品質管理」の理念はあまねく企業に及び、生産管理のベースになっていることは周知のことであり、「QCはアメリカで生まれて日本で育った」といわれている。
 昭和34年1月を迎えて、大争議後の雇用問題や配置転換問題もようやく終りを告げたが、会社の経営状態はもはや独力では再建が困難となっていたので、取引先金融機関やグループ企業に対して役員の派遣や株式の引受けなど、全面的な支援を求めて再建計画を策定した。

      経営体制の大改革が始まった
 2月になると新経営方針具体化の一環として、営業、研究部門の強化拡充、予算統制制度の推進、経営管理機能の増大と集中化を目指した機構改革が実施され、収益の増加と社風の一新が強調された。
さらに8月1日、「事業部制」による新しい組織を確立し業務分掌や諸制度が全面的に改革された。
従来の職能別組織の下では専門家は養成されるが、販売、技術、財務を通じた広い視野を持つ経営者の養成は困難であるという問題も指摘されていた。
そこで、トップ層の権限の大幅な分権と、独立採算的損益責任の確立をねらいとして「肥料、薬品、農薬、化学機械」の4つの事業部が設けられた。
したがって、各工場は事業部の下に位置づけられたので、本社との指示命令系統はいびつなものになったのである。
 つまり、トップの経営方針は常務会を通して直接工場長に伝えられるが、製造、販売等に関する具体的な事項は事業部長を通して、製造は各工場の製造課長に、販売は各支店の営業課長に伝えられることになるので、工場長も支店長も浮き上がってしまった。
工場長も支店長も「俺たちの責任は何だ?火元責任者だけか?」ということになる。
したがって、工場管理室の機能強化が求められた結果、事業部長からの指示・命令はすべて「工場管理室」を経由して関係部署に流れることにしたので、工場長の立場は強化され、管理室の業務も増えていった。
この時期には管理室のスタッフも増員されていたので、仕事は増えたが信平たちの労働強化にはならなかった。
 この機構改革に合わせて、信平たちの工場長には新進気鋭の二宮工場長が赴任してきた。
彼は東北大学(旧帝大)出身で、主力工場である王子(東京)工場の生産課長から抜擢された優秀で情熱的な技術屋さんだった。
今回の改革の重要なポイントは、「事業部長が採算の責任を負う」ことである。
したがって、「工場の損益=0」として事業部と工場間の製品の「仕切り価格」が決められるので、工場が頑張って「予定原価」をクリアしても「利益はゼロ」となる仕組みであった。
二宮工場長は「頑張っても利益ゼロ」では従業員に対して説明がつかない、「管理室はどうすれば利益がプラスになるか」をテーマに、工場の利益計画を「大至急作成のこと」という指令を出したのだった。
この問題を解決することはそう簡単なことではない。ベースになる「原価管理」をどうするか、「経費の予算統制」をどうするかという大問題がいっぱい横たわっているのである。
当時の「企業会計基準」では利益計画作成のために必要な「直接原価=ダイレクト・コスティング」が捕捉(ほそく)できないために「特殊原価調査」という領域に踏み込むことが必要であり、予算統制も「仕組み」を決める前に「事務の合理化・標準化」が必要なのである。
二宮工場長は田島室長に「この仕事は麻木にやらせろ」と指示したので信平は驚愕した。
確かに今泉室長時代から、もろもろの「管理手法」について勉強してきたが、いきなり若年の信平に命令されても、そう簡単にいくとは思えなかった。
信平はその気持ちを率直に訴えたが、工場長は「それは分かっている。それが出来るようにするのはオレの仕事だ。だから安心してやってくれ」と言われた。
信平はそうまで言われると辞退することも出来ないので「やって見ます」と返事するしかなかった。
 その直後、工場内に各課長が参加する「合理化推進会議」というプロジェクトチームが発足し、事務局長に田島室長が、事務局員として信平が任命された。
第一回会議の席上で工場長から趣旨説明があり、最後に「諸々の計画案は麻木に担当させるので、麻木の提案は工場長案だと思って欲しい」という命令が出されたのだった。
信平は「工場長はこれほどまでに信頼してくれているのか」と思うと同時に、期待に沿うべく「頑張らなくちゃ~」と決心した。
その後の詳細については多岐にわたるので省略するが、「帳票管理」や「文書管理」を中心とした「事務の合理化」については、高い評価を得て「工場長表彰」という栄誉を受けたので、「二宮工場長へ恩返しが出来てよかった!!」と思っている。
その他にも「現場の監督者訓練」のインストラクターとして、従業員教育にも従事したので、信平にとっては充実した一時期であった。
 二宮工場長には時々酒や麻雀に誘ってもらっていたが、酒を飲むと決まって「お前はまだ若い。いつまでも工場にいてはダメだ。一度営業に出ろ」と言われていたので、新平はその言葉の意味はよく分からなかったが、「その覚悟も必要だろう」と思いはじめていた

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2006.06.20

第5章 転勤族の子育て

      結婚と出産 
 昭和34年3月21日、信平と里見涼子は今泉室長ご夫妻のご媒酌により、労働会館で質素な結婚式を挙げた。
労組・青婦部の活動テーマの一つに「結婚式の改善」があり、旧来型の華美な結婚式をやめて「会費制」とし、周囲の人たちに余計な負担を掛けないようにしようという趣旨であった。
信平も涼子も、部長・副部長という立場で組合員に広く呼びかけていたのだが、なかなか普及できなかった。
本人は理解しても家族や親族はなかなか理解できず、反対されるケースが多かったからだ。
「旧来の陋習(ろうしゅう)を壊すのは大変だな~」と思ったが、青婦部は根気よく継続しようということにしていたので、信平には願ったりかなったりだった。
しかし、里見家の方が気がかりだったので、涼子に確認すると「大丈夫」という返事だったので信平はほっとした。
結婚式がますます華美になる昨今に比べれば雲泥(うんでい)の差であるが、親も当事者も「これでよいのか?」と自問自答してみることが必要ではないだろうか。
当日は300円の会費制で労働会館で挙式したが、参会者全員が賞賛し心から祝福してくれた。
信平も涼子も心から感激して「有難うございます」と何回もお礼を言った。
 新婚旅行は今泉室長の「新婚旅行はケチらずに豪華にやりなさい。いい想い出になるよ」というアドバイスを受け入れて、4泊5日で奈良、吉野、白浜、勝浦、新宮近辺を周遊して、本当に楽しい思い出をいっぱい作ったのだが、信平は思い出しても恥ずかしくなるような大失敗をやらかしてしまったのである。
最後の目的地である瀞(どろ)峡をプロペラ船でさかのぼり、折り返し点に着いたところで35枚撮りのフィルムが切れたので、交換しようと思ってフィルムを捲き戻してカメラのふたを開けたところ、フィルムが残っているので「あれ!!?」と思ってフィルムを引っ張ったところ、ずるずるっと全部出てしまった。捲き戻しに失敗したのだった。
だから新婚旅行の写真は「ゼロ」。今でも涼子に恨まれ、軽蔑されている。
 信平夫婦の新婚生活は順調な滑り出しだったが、3ヶ月ばかり経った頃に少し厄介(やっかい)な問題が持ちあがったのだった。
ある日、涼子から「今の生活に不満はないけど、いずれは『転勤』という問題が出るだろうと思うの。その時には断るわけには行かないし、家族全員で引っ越すわけにもいかないので、両親の自立も考えて上げないといけないと思うわ」と切り出された。
信平も以前から同じような心配を持っていたのだが、よい思案もないので黙っていたのだった。
その後二人でいろいろと考えていたが、ある日涼子から提案が出た。「お義父(とう)さんは下関に通勤されているので、下関で何か商売をしたらどうだろうか?」というものだった。
「商売といっても元手がなければ出来ないだろう」と返事すると「小さな『おでん屋』なら少ない元手でも出来るのでは?」というので、「じゃー、平田に頼んで調査してもらうよ」と言って、平田に相談したところ「いいよ」と言っていろいろと調べてくれた。
その頃平田は、お父さんが急死して下関の会社が経営出来なくなったので、お母さんと一緒に地元で小さな食堂とスナックを経営していたが、下関の事情には詳しかった。
しばらくして平田から「今なら古い繁華街に居室付きの『おでん屋』があり、居抜きで貸してくれるそうだ」といって、「元手はざっと計算して40~50万円あれば充分だと思うよ」という報告を受けた。
信平たちは、このことを両親に話して協力を求めたところ、母はいろいろと思案していたが「あなたたちの将来を考えると、いつまでも同居するわけにもいかないので、頑張ってみよう」といって「だけど元手はどうするの?」と心配そうに信平の顔を見つめていた。
信平と涼子は相談して、労働金庫から50万円の融資を受けることにした。しかし、労金は「金額が多いので確かな保証人をつけること、返済期限は8年以内」という条件で承諾してくれた。保証人は殿山さんにお願いした。
当時の50万円は信平の月給の25か月分だった。
 こうして信平たちは信平の家族と別居して、二人だけの生活に入ることができたのだたが借入金の返済は大変だった。

       信平、国会デモに参加 
 信平の仕事は順調だった。「線形計画法」や「オペレーションズ・リサーチ」などの新しい科学的管理手法を勉強し、講習会に参加したり山口県経営者協会の「生産管理研究会」にも参加して幅広い知識を吸収していった。
しかし、34年7月から35年6月までの期間、合化労連・青婦部の幹事に選出されて、労組の仕事から足が洗えなかったので毎日が忙しかった。
35年になると「新安保条約反対闘争」が本格的になり、労組は勿論、全学連や文化人、宗教者も巻き込んだ反対デモが連日行われるようになっていた。
5月の下旬だった。合化労連の幹事会に出席していた信平たちに「今日午後から首相官邸に『請願デモ』をかけるので、君たちも参加して欲しい」という書記長の指示が出た。
午後2時頃から労連・執行委員の指示に従って、田村町の交差点から粛々とデモ行進を行い、官邸の坂下まで行ったところで行列が止まってしまった。
前には進めず後ろからは押してくるので「何事だろう?」と訝(いぶか)ったが、信平たちはいつの間にか最前列まで押し出されていた。官邸は目の前にあり最前列は全学連だった。
その前には幌(ほろ)を掛けた警察機動隊のトラックが何台か止まっていて、官邸への通路を妨害していたので前には進めないはずである。
それから押し問答が続き2時間ばかり経った頃、全学連の連中がトラックの幌を引き剥がしにかかり、押し合いへし合いしていたが、幌が引きずりおろされると車上には武装した機動隊員が一杯詰め込まれていた。
それを見た全学連の連中は興奮して、プラカードを振り上げて襲い掛かったところ、トラックがさっと引き揚げてしまったので行列は前のめりになり、後ろからはイライラしたデモ隊員が押してくるので、行列は否応なくものすご物凄いスピードで走るように流れて行き、あっという間に国会の前に押し出され、なだれを打って国会に突入させられたのだった。官邸への通路は塞(ふさ)がれたままだったのである。
日暮れ時の国会は正門の鉄の門扉が開かれており、フライヤーが閃光を発して飛び交い昼のような明るさだった。それはまさに仕組まれた光景であった。
デモ隊員は口々に「挑発だ、挑発だ!!」と叫んでいた。
 翌朝の新聞は「暴徒と化したデモ隊国会に乱入!!」というような大きな見出しで報道していた。
しかし、デモ隊の通る道は国会正門へと誘導されるように交通規制されていたのだった。
東大生の樺(かんば)美智子さんがデモの途中で機動隊に殺害されたのは、それから20日ばかり後のことだった。
このデモ隊も過激な行動は取らないことを申し合わせて、静静粛々(せいせいしゅくしゅく)と行進していたところに、機動隊が襲い掛かったために起こった混乱の中での出来事であったといわれている。
メディアはこのデモを「国会乱入第1号」と報道していたが、第1号は5月下旬に信平たちがおこなった請願デモである。信平は国家権力の陰湿さに身震いしていた。

       長男誕生と名古屋転勤
 昭和35年11月17日、待望の長男が誕生した。
当日、信平は社用で山口市に出張するので、出掛けに涼子から「今日生まれるかも知れないけど、その時には一人で産院に行くから心配いらないよ」と言って、「帰りには産院に寄ってみてね」と続けた。
信平は「分かった、気をつけて」と言ったが、嬉しさと不安がないまぜになって複雑な気持ちであった。
山口からの帰途、産院に立ち寄ったのは午後6時頃だったが、すでに産声(うぶごえ)を上げた後だった。
産院の助産婦さんから「おめでとうございます。お坊ちゃまですよ」と声を掛けられて「やった!!」と叫んでいた。
部屋に入ると小さなベッドの上に、「面長で目尻(めじり)の長いしわくちゃ顔の赤ん坊」が「この世の中で俺様(おれさま)が一番偉いのだぞ」というような顔で、口をパクパクしていた。腹がへっていたのだろう。
初対面の嬉しさとおかしさに信平は苦笑いを押し殺していた。
信平は「ご苦労さん、体は大丈夫か?」と涼子に声を掛けた。涼子は「有難う、大丈夫よ」と言って目を潤(うる)ませた。
 父親になった信平は誰かに祝福してもらいたくて、気が付くと足は行きつけの居酒屋に向かっていた。
居酒屋には殿山さんがカウンターの前に腰を下ろしていたので「生まれたよ!セガレが」と言って、無事に出産したことを報告した。
殿山さんは「でかしたな~!!」と言って信平に杯をくれたが、その時、殿山さんはまだ独身だった。
居酒屋の親父さんも「おめでとう!!」と言って一緒に祝杯を上げてくれて「今日は徹底的に飲もう!」と言ってコップの酒を飲み干していた。
 一週間後に涼子に抱かれて長男が帰ってきた。一回り大きくなっているような気がした。
この1週間、信平は「名前をどうしよう?」と考えていたが、なかなか名案が浮かばず少しあせっていた。
いずれ日本にも国際化の波が押し寄せてくるので、将来は「国際的なビジネスマンになって欲しい」という願望もあったので、「彰司=ショージ」がいいのでは?「ショージ」なら外国人にも分かりやすく、呼びやすい名前ではないかと思った。
それに「彰司」は「つかさ」を「あきらか」にする、つまり「要の地位を得られる人」という意味もあるようなので「これで行こう」と決めた。
帰ってきた涼子に「名前はどうしよう?」とたずねると「あなたに一任」と言ったので、腹案を話したところ、「いい名前ね」と言って賛成してくれたので、すんなりと命名は終了した。この頃は涼子もまだ従順だった。
涼子は産後の休暇が終わると、工場の近所に住んでいる主婦に彰司の世話を頼んで工場勤務に復帰した。
 彰司は順調に成長し、よちよち歩きが出来るようにって、最初の誕生日を迎える頃だった。
この春、本社に転勤した今泉室長に代わって室長になった田島さんから、「ちょっといい?」と言われて応接室に案内された。
何事か?と訝(いぶか)る信平に「早速だけど異動の話です」と言って、行き先は「名古屋支店・化成品課だ」と続けた。
信平は「やっぱり来たか」と思いながら、「家内とも相談させて下さい」と言って時間をもらった。
室長は「いいけど、何か支障でもあるの?」と言って、信平の反応を確かめるようにしていたので、「はい、共稼ぎが出来なくなると経済的に困るんです」と言って、家庭の事情を話した上で、「断るつもりはありませんので、少し時間をください」と言って了解を求めた。
室長は「事情はよく分かったが、会社の事情も理解して欲しい」と言って、会社の機構改革の目的の一つに「営業力の強化」があり、どうしてもその目的を果たさなければならないが、若い人でなければ成功できない。
既存の古い営業マンでは、これからの競争時代には対応できないし、特にこれからの化成品は、新製品の開発競争時代に入るので、どうしても若い力が必要なのだ。と熱心に口説かれたのだった。
信平がこのことを涼子に告げると「やっぱり来たのね」と、割とクールに返事したので「いいのか?」と聞き返すと「断ることは出来ないでしょう」「ただ就職先があればいいのだが…」と心配していたのが可哀想だった。
翌日、信平は田島室長に「転勤を承諾します」と返事したところ、赴任は「来年早々、出来るだけ早く」と指示された。
昭和37年の新年早々、信平一家は名古屋に赴任していったのである。
信平は名古屋には行ったこともなく親戚も知人もいないので、他国に行くような思いで心細かった。
名古屋駅のプラットフォームには、同じ課でお世話になる玉川さんが社旗を掲げて出迎えてくれていた。玉川さんは3年先輩であった。
    
       会社は最悪の事態に突入 
 会社はいろいろと改革案を提示し推進していたが業績は一向に立ち直らず、むしろ悪化の方向に向かっていた。
37年6月、「この事態を打開するために…」という名目で役員人事を断行したが、結局は代表取締役と一副社長、二専務が降格され、日本興業銀行から代表取締役と一常務を迎えることとなり、銀行支配が強化されただけという結果に終わった。副社長制は廃止された。
それでも依然として業績は回復せず低迷を続けていたので、年末のボーナスは会社の「有史以来最低」と言われるほどに激減し、信平一家の家計はますます危機的状況に追い込まれていった。入社当時の勢いはどこへ行ったのだろうか。
 涼子は熱心に就職活動を続けていたが幼児を抱えた主婦の職場は狭かった。
失業保険の受給期間が切れてせっぱつま詰った涼子は、一時しのぎに生命保険のセールスレディに応募して、生命保険の勧誘を始めたが未経験でもあり、見知らぬ土地でのこの仕事は大変だったようである。
最初のうちは、親兄弟や親戚にも声を掛けて協力を求めていたが、それにも限度があり挙績はなかなか伸びなかった。
その頃、信平も「営業」という未経験の仕事と取り組んでおり、仕事を覚えるのに汲々(きゅうきゅう)としていたが、営業の仕事はアフターファイブも多忙であったので、家計は勿論、家事一切を涼子に一任していた。
涼子の苦労は並大抵のことではないだろうと思いながらも、涼子の相談に乗ることも出来ず、協力できないことを悩んでいた。
信平一家にとって、この時期が最初で最大の危機であった。
涼子は妹の圭子さんに頼んで、陰に陽に経済的な支援を受けながら、この危機をなんとか乗り切ってくれたのだった。圭子さんには今でも感謝している。

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2006.06.21

営業の仕事は大変だった

       「営業の仕事は大変」だった
 化成品の営業は製品ごとに担当し、特約店を通してユーザーに販売するので、直接セールスをするわけではなかった。
営業は駆け出しである信平の担当製品は一応決められたが売上高も少なく、言ってみれば「どうでもいい製品」であり、実質的な実務は「製品の受け渡し=デリバリー」であった。
化成品課は全工場の製品を取り扱うので、まず全製品名を覚えることが必要であり、その販売ルートと受け渡し方法もみな違うので、それも覚えなければならなかった。
製品はすべて荷姿・容量などそれぞれが違うものもあるので、全アイテムは100種類近くあったと思う。
それと、名古屋支店のテリトリー(販売地域)は東海三県(愛知・岐阜・三重)と静岡県の一部、および北陸三県(石川・富山・新潟)と福井県・長野県の一部にわたる広範囲なものであった。
それらの各地域にある特約店、二次店およびユーザーを加えると膨大(ぼうだい)な数になった。
その当時はベテランの女性・野村さんが一人で切り回していたので、信平は彼女について一つづつ聞きながら勉強していたが、一ヶ月ばかり経ったころ野村さんが結婚退職してしまった。
信平はパニック状態に陥(おち)いった。後任の三宅さんが直ぐに入社したので頭数はそろったが、今度は信平が指南役(しなんやく)である。半人前の信平は気が遠くなるような思いであった。
信平の課には課長と二人の先輩・郷田さんと玉川さんがいたが、日中は二人ともほとんど外出しているので、いつも店番は半人前の信平と新人の三宅さんだけということになる。
課長はいても実務はあまりこなしていないので、いわば半人前である。信平はしばらくの間、電話が鳴り出すと緊張し、心臓の鼓動(こどう)が激しくなって困っていた。
その時の恐怖心が今も残っているのだろうか、電話はあまり好きではない。
半年ばかり経った頃にはなんとか「電話恐怖症」も軽くなり、特約店やユーザーの所にも一人で行けるようになっていた。
 最初の頃は課長も先輩たちも、アフター5は「早く家に帰りなさい」と言ってくれていたが、その頃になると「時々は特約店の若い連中とも付き合った方がいいよ」と言われるようになっていた。
信平はもともと酒や麻雀は嫌いではなかったので、「水を得た魚」のように活躍できたのだった。
その頃、課長や先輩から「名古屋にいる間にゴルフを始めろ」と言われていたが、経済的にもゴルフが出来るような状態ではなかったので逡巡(しゅんじゅん)していた。
そのころは、ゴルフクラブも少なく「美津濃の低級品」でもハーフセットで1万7千円、上級品は2万5千円という高価なものであり、キャディバッグやゴルフシューズなどラウンドするために必要なものをそろえると、最低2万5千円(月給は約2万円)くらいは必要であった。
信平は家庭の経済を考えると、とてもゴルフには手が届かないなと思っていたが、信平より6ヶ月ばかり遅れて名古屋に赴任して来た、3年先輩の大島さんに背中を押されて決心したのであった。
大島さんは「これからはゴルフが盛んになり、営業マンにとって酒や麻雀と同じように必要な道具となる。
いや、それ以上になるだろうと思うよ」と言って、「古いけど使わないクラブが2~3本あるので練習場に行ったらどうだ?」と付け加えてくれた。
大島さんとは社宅がとなり同士ということもあって、兄弟のように面倒を見てもらっていたので、信平は今でも年賀状のやり取りをしている。
それから信平は大島さんにもらったクラブで練習場に通いはじめたが、ラウンドするための準備をどうするか?に心をいためていた。
 営業マンは「遊び好き」が多く、昼休みには「花札=こいこい」も毎日のように開帳していたので、信平も仲間に入って遊んでいたが、「博才(ばくさい)」があるのか勝つことが多かったので、その収入もバカにはならなかった。
信平は麻雀や花札の収入を「ゴルフ資金」として貯金していたところ、ゴルフ用品一式が買える程度の資金が貯まったので涼子に相談したところ、「あなたのお金だから好きなように使っていいよ。だけど、これからも含めてゴルフには1銭も家計からは出ないので念のため」と言ってくれたが、それでも信平は嬉しかった。
信平は翌年(38年)7月1日、会社の創立記念日にはじめてラウンドし、40年以上経った今も健康のために続けているが、スコアはビギナー並みである。
大島さんが言ったとおり、その頃からゴルフは「営業マンの必須条件」になり、今ではゴルフ人口も3千万人を超えたともいわれるほどに隆盛を極めている。
ちなみに、信平が始めた頃は「100万人のゴルフ」という本が発売されていたので、ゴルフ人口も「推(お)して知るべし」であろう。

        父との別離 
 昭和39年の日本は「東京オリンピック」の年で、経済も高度成長が約束されたように確かな手応えがあり、国中が湧きに湧いていたが、信平の身の回りは不幸が重なってオリンピックどころではなかった。
まず、3月16日に涼子の父が逝去した。高血圧による「狭心症(きょうしんしょう)」で急死だった。まだ61歳という若さであったが、これも天命であろう。
2度目の不幸は信平の父も「胃ガン」で亡くなったことである。5月頃の健康診断で「胃ガン」が発見されたのであるが、やや手遅れであったとか。
母の話によると酒好き、タバコ好きの父は、いくらすす奨めても健康診断を受けないので、無理やりに母が病院に連れて行って発見されたということだった。
6月に「もうダメらしい」という連絡を受けたので、信平たちは下関まで帰省して見舞ったのであるが、その時はなんとか小康(しょうこう)を保ったが、医師は「この夏が越せるかどうか?」だと言っていた。
10月の半ばだったと思う。母から「もうダメらしいよ」という連絡があったので再度帰省して見舞ったが、医師は「内臓はほとんど機能していないので、輸液(ゆえき)によって栄養を補給している状態だから予断は許せない」と言っていた。
父は「胃潰瘍」だと知らされていたので「藪(やぶ)医者はなかなか治してくれない…」とぼやいていたが、体は痩せ細り、腹だけが異様に膨張していた。
血管の収縮(しゅうしゅく)も激しく、注射針も思うように通らない状態だったので、周期的に訪れる激痛への対応も難しかったようである。
信平も「これが最後だろう」と思ったので、病院に泊り込みで看病していたが、なかなか息を引き取る気配がないので、医師に尋ねたところ「心臓が丈夫なので呼吸は正常です」と答えるだけだった。
信平は仕事の方も心配だったので、課長に電話で状況を話して「休暇の延長」を承諾してもらい、しばらくは電話連絡で仕事に支障が出ないようにしたのだった。
11月1日の夜だった。信平はいつものとおり「晩酌(ばんしゃく)の酒とおでん」を持っていくと、父は「今日は酒がまずい…」と言ったので、「もうダメだな」と思って医師に連絡して最後の病状を診てもらったのであるが、その頃は「激痛の周期」も30分おきになっていた。
信平は母に電話で状況を話して、妹たちにも連絡するように頼んだのだった。
父は予想どおり翌二日の未明に息を引き取って逝(い)った。享年(きょうねん)60歳、まだ若かった。
信平夫婦はこうして同じ年にそれぞれの父親を失ったのであるが、信平の父は「軍需工場の技術屋」として、涼子の父は「朝日新聞の記者」として、共に激動の戦争時代を突っ走った企業戦士だったのだと思うと、悲しみもひとしおであった。
 信平は約6年半にわたって名古屋支店に在職していたが、その間、後輩が二人、女子事務員が二人増員となって、陣容も充実し売り上げも順調に伸びていた。
しかし、会社全体の業績は依然として低迷が続き「利潤なき繁栄」を引きずっていた。
昭和41年12月17日、長女が誕生した。笑顔の可愛い女の子だったので「気配りの上手な女性」になって欲しいという思いから「綾子」と命名した。
このころ彰司は6歳になり来春は小学校に上がる頃であった。

       東京支店に転勤を命ず 
 昭和43年8月信平は、東京支店化製品一課への転勤を命じられた。彰司は小学2年生だった。
業務の内容は名古屋支店時代と同じであったが、東京は名古屋と比べて市場の規模が格段に違っていたので、仕事は面白かった。
名古屋では広いテリトリーを行商人(ぎょうしょうにん)のように走り回っても、大した売り上げにはならなかったが、東京では丸の内や大手町辺りを一廻りすれば、一桁(ひとけた)違う売り上げになるのだから楽である。
信平は主要製品を含めてかなり多くの製品を担当していたが、信平に与えられた最も重要な仕事は「液化炭酸ガス」の拡販(かくはん)であった。
課長からは「この仕事は大変重要な仕事だ。すべて君に任せるので思い切ってやってくれ。交際費はいくら使ってもかまわない」と言われた。太っ腹な課長だった。
炭酸ガスはアンモニアを合成する過程で副生するガスであり、従来、北陸地域は需要も少ないのでほとんど空中に排出されていたが、主な需要分野である溶接・鋳物(いもの)およびコカコーラに代表される清涼飲料などの市場が成長し、環境問題も手伝って、アンモニアメーカーはこぞってガスの回収を行い、市場に進出したのだった。
信平の会社も富山工場で地元の鋳物工場の要望でわずかばかり製造していたのであるが、天然ガスからアンモニアを合成する設備を長岡(新潟県)工場に新設したため、月産能力1千トンの炭酸ガスの精製設備を併設したのである。
捨てるガスを回収して販売するのだから丸儲け(まるもうけ)である。しかもわずかな投資で出来るのであるから、収益対策上も美味(おい)しい仕事であった。しかし問題は「北陸の市場」である。
清涼飲料用は品質的に他社の独占市場であり、当社は手が出せない状態であった。
鋳物用は富山工場がほとんど抑えているので、既存の北陸市場に進出すれば骨肉(こつにく)の争いになり、大きなマイナスになる。
信平のところには長岡工場長から「早急にフル操業できるように」という電話が、連日のようにかかって来た。
信平が赴任した当時の実績は、群馬県で温泉と一緒に噴出する炭酸ガスを回収して、鋳物用に販売しているメーカーに僅かばかり融通(ゆうずう)販売していただけであった。
信平はその会社のシェアーを狙(ねら)ったが、天然のガスを回収して精製する方法はコストが高くなるので、同社は価格競争はしたくなかったのである。
そこで信平は当面「この会社に押し込む以外に方法はない」と考えて、特約店の担当者とと相談して戦略を練(ね)った。
この会社は月間1500トン程度を扱っていたので、目標を800トンとして交渉に入ったのだった。
価格的には大幅に譲歩(じょうほ)してなんとか折り合いがついたが、数量的なハードルはかなり高かったので担当者レベルの交渉では「まとまらないだろう」と判断し、信平は「トップ会談」に持ち込むための方策を考えた。
そこで「天然資源は有限だから、今はコストの安い副生品を積極的に扱うべきだ」という論法(ろんぽう)で口説いたところ、専務まではよい感触(かんしょく)を示したので、「先方の多田社長と当方の草野支店長の会談をセットアップして、一挙に合意させるべきだ」ということで支店長の了解を取り付けた上で「会場は軽井沢、ゴルフの後で会食しながら懇談しましょう」という提案を多田社長に申し入れた。
多田社長も社内の雰囲気(ふんいき)がほぼ了解に傾いていたので否応なく承諾してくれた。
草野支店長はゴルフをやらなかったので、わざわざゴルフシューズを購入して、一緒にコースを回ってくれたのだった。
これに感動した多田社長は「参りました。何も言うことはありません」と言ってすべての条件を受け入れてくれたので信平はほっとして肩の荷がおりたようだった。
この後は販売店の尻を叩いて拡販に努力し、半年ばかりでフル操業が実現出来たので、長岡工場長から感謝の電話をもらった。
会社の表彰委員会もこの実績を認めて、営業マン個人には例がないという「社長表彰」を信平は受賞したのだった。
   (後日譚)
草野支店長は東京帝国大学出身で気骨もあり情もある「古武士(こぶし)」のような人柄で信望も厚かった。
馬好きで競走馬のオーナーであった支店長はゴルフをやらなかったが、軽井沢ゴルフ場の壮大な雰囲気に惹かれたのか、信平に「ゴルフも面白そうだな」と 言ったあとで「クラブを買いに行くから一緒に行ってくれないか?」と言われて信平はニヤリと微笑(ほほえ)んだ。
因みに、東京支店のゴルフコンペに寄贈してもらった立派な「草野杯」は取切り戦で信平が獲得し、今でも大切に保存している。
信平がこの会社を退職した後のことであるが、銀行からの派遣役員によって食い荒らされた会社の建て直しのために、社長に就任し「不採算部門はすべて切り捨てる」という大改革を断行して、見事に再建を果たした名社長であったが、その疲労からか、ヨーロッパ視察旅行の途上、現役社長のまま急逝(きゅうせい)された。
ご冥福を祈るのみである。(合掌)

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2006.06.22

第6章 サラリーマンの反乱

      会社は銀行に乗っ取られた 
 会社の構造改革は依然として進まず、財務内容はますます悪化していった。
信平の目から見ても改革は「ツー・レイト、ツー・スモール」であることは明らかであり、改革戦略も正しかったとは思えないものが多かった。
昭和36年6月に竣工(しゅんこう)した長岡工場は「天然ガスをベースにした画期的な新鋭工場である。これが予定どおり稼動すれば、会社の収益性は一挙に改善出来る」と言って、従業員に夢を与えた改革であったが、石油資本の甘言(かんげん)に乗せられたのか「ガス田の埋蔵量(まいぞうりょう)の見積り」に誤算が生じ、10年そこそこで閉鎖を余儀なくされて大失敗に終わったのである。
遅ればせながら千葉の石油コンビナートに参入したが、これも「製品戦略」を誤り不採算工場の塊(かたまり)になってしまった。
すべて銀行から派遣された役員の盲目的(もうもくてき)な経営の結果であるが、誰一人として責任を取る者はいなかった。
昭和45年当時の役員21名の内20名が銀行からの派遣であり、生え抜きは信平たちの事業部長であった栗原取締役ただ1人であった。
そのために会社の風土も一変、事なかれ主義が蔓延(まんえん)して管理職も官僚化していった。
このような環境の中で「有能」という評価を受けている管理職が、櫛(くし)の歯を引くように退職していったのである。
信平たちの課長も代わっていたが、その課長の管理方針は「販売目標が達成できなくても申し開きは出来るが、交際費の枠がオーバーすると管理者の管理能力が問われるので注意して欲しい」という言葉によく表れている。
 信平は言葉を失うほど驚いた。営業部の交際費は販売目標を達成するための手段であり、目的ではないはずである。
信平は営業部員の使命は「どのような事情があっても、販売目標を達成することである」と信じて、与えられた仕事に懸命に取り組み、業績向上に貢献(こうけん)してきたつもりである。
このような役員や管理職の下では「仕事のやり甲斐(がい)もなく、自分の成長も望めない」と判断して、この会社に見切りをつけたのだった。

      信平、遂に転職す
 その当時は高度成長の真っ只中で、有能な人材は「引っ張りだこ」だった。
信平にも特約店である某中堅商社から「給料を今の2倍出すから来て欲しい」というオファーがあったほどである。
信平は一瞬ぐらぐらっとしたが、「同業の企業への転職はどうだろう?」という疑問もあり断ったが、意外なところから転職の話が持ち上がったのである。
 昭和46年の春頃だった。小学校から高校まで同級生だった村田が突然電話をよこして「今晩会えないか?」と言ったので、今頃何だろう?と思ったが「いいよ」と言って承諾した。
その日の夕方仕事を終えた信平は指定の場所に行くと「久しぶりだな~、一杯やろうよ」といってホテルのレストランに案内してくれた。
酒を飲みながら懐旧談(かいきゅうだん)で盛り上がっていたところ、突然「そろそろ山口県に帰って来たらどうか?」と切り出してきたので、「どうしたの?」と訝りながら問いただすと、彼は次のような説明をして「お前にも手伝ってもらいたいのだ」と言った。
 彼は開業医の次男で大学を卒業して中堅の製袋会社に勤務していたが、広島でトヨタ系のディーラーを経営していた大学時代の同級生が山口県にも進出するので、昭和39年に請われて新会社の設立に参加し、現在は常務取締役になっていた。
その新会社もモータリゼーションの波に乗って急成長をと遂げ、「ファミリーレストラン」や「ハウジング」の分野にも進出していた。
従って人材の不足は限界に達してきたので、即戦力を求めて「中途採用」を全国的に推進していたのであった。
信平も「この辺りが潮時かな?」と思って話を聞いていたところ、「条件的な問題についてもあらためて詰めたいので、一度徳山に来てくれないか?」と言ったので、信平は了承した。
 家に帰って涼子にこの事を話すと涼子は「私は絶対に反対です!」といって、話を聞こうともしなかった。
理由は「折角大企業に入ってここまで来たのに、なにも自動車の販売会社に転職することはないでしょう」というものだった。
その頃、信平たちは千葉県市川市の社宅に住んでいたが、涼子の末弟である「純ちゃん」が日本航空の「客室乗務員」として入社し、信平たちの社宅の前にあるアパートに越してきて、母と一緒に生活を始めていたので、涼子も楽しそうに世話を焼いていた。
そのせいもあってか、信平の説明も聞こうとはせず「大企業から離れないで…」の一点張りであった。
 信平は「とにかく現地に行って話を聞いてくる」といって徳山に飛んだ。
その会社の業績は短期間の間に驚異的な成長を遂げており、素晴らしい財務内容であった。
提示された条件もかなり高かったが「希望があれば言ってくれ」と言うので、社宅や生活面に関する問題を2~3聞いたがすべて「問題なし」だった。
信平は「家族の同意を取って連絡する」と言って帰京したが、涼子の説得をどうしようか?と悩んでいた。
説得には応じないと分かっていたので、信平は「決めて来た」と単刀直入(たんとうちょくにゅう)に話したところ、涼子は泣きくずれてしまった。
困った信平は涼子の母も交えて2週間にわたって説得を続けた結果、嫌々(いやいや)ながらも何とか説得に応じてくれた、というよりもあきらめてくれたので、信平は安堵(あんど)の胸をなでおろしていた。
 昭和46年7月、信平は19年間お世話になった会社に辞表を提出して退職した。
楽しみも苦しみも一杯詰まった会社を去っていく事は、いくら事情があったとはいっても寂しいことだった。
お世話になった多くの人たちに別れを告げて信平一家は山口県徳山市に転居した。
彰司は小学5年生、綾子は4歳に成長していた。
特に彰司は7回目の転居であり、4回目の転校だった。いかに会社や親の都合であったとはいえ、幼い子供にとっては大変な苦労があっただろうと思うと、「申し訳ない」という気持ちで一杯だった。

       第二の人生が始まった 
 昭和46年8月1日、信平はトヨタ系のディーラーに入社して、第二の人生をスタートした。
この8月は順調に経済成長を続けてきた日本経済に、水をさすような「ドルショック」事件が起こった。
ニクソン大統領は、ドル防衛を目的とした一連の経済政策を発表したが、これは産業界に先行きの不安感を抱かせ、景気の停滞感を強めることになった。
しかし、国内の自動車の需要は着実に伸びており、売れ行きは順調であった。
トヨタ・ディーラーに入社した信平は「経理課長」という仕事を与えられた。
信平は原価管理や営業の仕事はこなしてきたが、経理という仕事は経験がなかったので面食らった。
しかし、最初から泣きごと言を言うわけにもいかないので、やるしかなかった。
前の会社の営業マンは特約店の与信調査も仕事の一つであり、バランスシートの分析はある程度は出来たので、まったくの素人ではなかったが、「決算と資金繰り」には手が出なかった。
経理課には主計係と財務係という二つのセクションがあり、主計の仕事は経営計画の作成と決算であり、財務の仕事は資金繰りであった。
上司は今田部長、彼も総合商社からの転職組で財務のベテランだったそうだ。
主計は堅田係長、財務は若林係長、各係にはほとんど女性であったが数人づつ配置されていて、みんな若かった。
古い会社にいた信平は、そこでは「若手」であったが、ここでは「古手」と言われるような年配であった。
しかし、この会社の管理職は本業以外にも重要な仕事を与えられていた。「リクルートと社員教育」である。どちらが本業か分からないほど多忙だった。

      トヨタはなぜ強いのか
 トヨタ・ディーラーに入ってみて「なぜトヨタが強いのか?」ということがよく理解できた。
ディラーの最重要課題は「人材(セールスマン)の採用と教育」であり、第2が「広告宣伝」であった。
ディーラーの評価基準も、この二点にどれだけ資金を投入しているかが最も高いウエイトを占めていた。
つまり、強いディーラとは、「財政的に自立し、多くの優秀なセールスマンを保持して、販売促進活動を積極的に推進している企業」であった。
だから、販売・サービス・経理などの業務マニュアルは完璧(かんぺき)に統一され、積極的に指導していたが資金的な援助は一切しなかった。
 「販売の神様」といわれた、当時のトヨタ自動車販売(株)の神谷正太郎社長は、ディーラーの社長会の席で出た「いい車を作ってください」という要望に対して次のように答えたというエピソードが残っている。
「いい車とは『販売台数がNo.1の車』です。世界で一番多く売れている車は『カローラ』ですね。だからカローラは『一番いい車』です」と。
さらに続けて「その車を売るのは誰ですか?セールスマンですね。車の市場を作るのは『景気』ではなくセールスマンです。
だから、ディーラーさんは、セールスマンの採用と教育に最善を尽くしてください。それが『いい車』を作る原動力です」と。物凄い発想である。
この理念が「世界一強いトヨタ」を支え、ますます成長していく「トヨタの実像」である。
因みに、セールスマン数は、トヨタの3万人に対して日産は1万人であった。
 当時、大衆車の販売は割賦(かっぷ)販売法によって「割賦手形」による決済が認められており、購入者の利便性も高かったので利用者が急増していたが、ディーラーにとっては資金調達が大変であった。
割賦手形はほとんどが36回(3年)払いであるが、メーカーとディーラ間の決済は「ラインオフから15日」という短期間の「白地(しらじ)手形決済」であったので、ディーラーの資金負担はほぼ3年分ということになる。(白地手形とは金額を記入しない手形、金額は相手が記入する)
したがって、ディーラーは車を売れば売るほど資金需要が増えるので大変である。
当時は今のようにローンもなければクレジットもない時代であるから、資金調達能力が無いディーラーは車を売ることが出来なかった。
 信平の会社は毎年トヨタの「総合表彰」を受賞する優秀なディーラだったので、いつも資金需要(じゅよう)は旺盛であった。
しかし景気が過熱気味であったため、金融当局の引き締め政策によって金融機関も貸出資金がタイトになり、特に割賦手形に対する融資には消極的であった。
信平は慣れない銀行廻りが日課となり、連日「借入れ枠」の確保に汗を流していた。
しかし枠を増やしても増やしても、それ以上に車が売れるのだから、信平たちの苦労は果てることがなかった。
このような苦しい現状をメーカーもようやく認識し、オールトヨタで3千億円の融資枠を設定してくれたので、ようやく落ち着いて仕事が出来るようになった。
しかし、1億円の融資を受けるためには約1万枚の割賦手形(担保)が必要であり、その裏書き作業がまた大変であった。
最も増加運転資金が多かった時期には、6ヶ月で11億円の手形を裏書して、トランクに詰め込み、若林係長と若い担当者が夜行列車で名古屋まで運ばなければならなかった。
こんなことで本体の資金繰りはなんとか目途(めど)がついたが、ファミレスやハウジングの資金手当ても大変だった。
こちらの方は新しい企業だから信用も無ければ担保も無い状態である。ファミレスは出店のテンポが早いので資金はいくら有っても足りないのだ。
ハウジングも当初はプレハブメーカーの代理店としてスタートしたから、資金需要はほとんど無かったが、昭和50年代になると「分譲住宅」の販売を始めたために、この方も大量の資金が必要になってきて、信平たちはパニック状態であった。
 昭和54年2月、信平は日本マネジメント協会主催の「アメリカ自動車産業視察チーム」に参加して2週間の視察旅行で研鑽(けんさん)を積んだ。
フルコミッション制のセールスマン、サービス工場の合理的なレイアウト、中古車展示場の広大さ、日常的に開催されるユーザー・オークションなど、参考になる事例は多かった。
 4月には彰司が東京大学に入学したので、信平一家にとっては幸先のよいスタートであった。
さらに9月にはハウジングの奨(すす)めもあって、念願のマイホームを購入し10月に転居することが出来た。
しかし、住宅ローンの返済は信平の将来に「重い負担」となって返ってくるのである。
 当時の日本国民は高度経済成長が続く中で「明日は今日より豊かである」「土地は必ず値上がりする」という神話を信じて疑わなかったのであるが、10年後にはこれも「幻想(げんそう)であった」ことを思い知らされたのだった。
    
       信平、ハウジングに転籍
 ハウジングには経理の専門家がいなかったので信平が片手間に手伝っていたが徐々に仕事量が増えてきた。
昭和53年中頃から分譲住宅の販売に拍車(はくしゃ)がかかり、大手メーカーと競合しながら積極的に取り組んだので、年間100戸以上の施工体制が必要になり、資金需要も膨(ふく)らんでいった。
この仕事は、土地の買収に始まり、建築、販売促進(広告宣伝)、契約、回収という流れになるので、投下資本も大きく回収期間が長いので資金効率が悪い上に、売れ残りが出ると利益も無くなり損失が出るので、「何をやっているのか分からない」ということになる。
信平は「小企業には不向きな仕事」ではなかろうか?という疑問があった。
 昭和54年度の事業計画を見ると「年間130戸」という販売計画であったが、その販売促進費(広告費)を見て驚いた。
なんとその総額が100戸分の販売利益とほぼ同額であったのだ。信平は「これでは採算が取れるわけがない」と思って今田部長に話すと「社長と相談してみよう」と言って社長室に入っていった。
しかし、社長の考えは「今必要なことは、130戸を建築できる施工体制と、それだけ売り切る販売力を作り上げることである」、だから「効率的な運営を指導し、協力してほしい」ということだった。
信平は頭を傾(かし)げながらも、社長の指示であれば仕方ないなと思って引き受けたが、実際に走り出すと大変であった。片手間にやれるようなボリュームではなかったからだ。
信平は今田部長に「ハウジングにも経理の責任者を置くべきです」と提言して、検討をお願いしたのだった。今田部長も実態が分かっていたので、社長と相談したようだった。
 年末にさしかかると、車の「追い込みキャンペーン」で最後の鞭(むち)が入り、増加運転資金の手当てに奔走(ほんそう)することになるので、信平もますます多忙を極めていた。
その頃であった。今田部長から「これは社長の指示だが、来年1月からハウジングの業務部長として行ってもらいたい。他には人がいない」ということだった。
信平は、自分が提案した事が自分にハネ返ってきたので驚いたが、社長命令であれば受けるしかないと決心した。

      信平、住宅販売に挑戦
昭和55年1月から信平はハウジングの業務部長として転籍された。
当時のハウジングは、折田常務取締役が総括責任を負い主に工務を主管、営業は船田部長が担当していた。
そこに「業務部」を新設して「経理・工務」をはじめ総務も人事も、つまり営業以外の業務をすべて担当することになったのである。
信平は仕事に入る前に、経理の伝票や帳簿類を丹念(たんねん)にチェックして、自分なりに数字にまとめてみると、決算書の数字とはかけ離れたものになったので、折田常務と船田部長に提示して理解を求めた上で、今田部長と一緒に社長に報告してもらった。
社長は折田常務と船田部長にいろいろと質問していたが、「出来たことは仕方ないので、現状をよく認識して早急に再建計画を作るように」という指示を受けた。
信平は社長の「積極路線」を理解できなかったわけではないが、もっと他にも方法があるのではないだろうか?と思っていた。
大手メーカーは一つのプロジェクトが20戸から30戸、もっと多いプロジェクトもあるようだが、ハウジングのプロジェクトは大きくても10戸程度である。
テレビのコマーシャルにしろ新聞の折込広告にしろ、分譲戸数に関係なくほとんど同価格である。戸数が少なければ一戸当りのコストは大幅に高くなるので競争にはならない。
弱小メーカーは広告媒体(こうこくばいたい)に頼らず、「品質」で競争すべきだと思っていたので、「高級感があり、低価格の注文住宅」を指向(しこう)すべきであると主張していた。
船田部長も同じ考えを持っていたが社長や常務を説得することは難しかった。
 信平はこの企業グループに対して、もう一つ違和感(いわかん)を持つことがあった。それは「同族経営」に関するものだった。
社長一族は手広く事業を営んでおり、長兄が繊維会社と広島のトヨタディーラー、社長の夫人一族は呉(広島県)で造船事業とトヨタディーラーをそれぞれ経営していたので、株式もお互いに持ち合って、一門の資産形成に協力し合っていた。
その事自体は悪いことではないが、異常とも思える同族経営のあり方は、大企業の経験しかない信平にとっては大きな違和感を持たざるを得ない状況であった。
 例えば、従業員を「私兵」のように使い、気に障(さわ)るようなことがあれば「格下げ」や「切捨て」も平然と行うという、近代的な経営感覚では想像もつかないようなことが日常的に行われていたのである。
そのために、社員のモラールは低下し、セールスマンの定着率も非常に悪かった。
また、株主総会には小株主である社員取締役や部長クラスも列席することになるのであるが、同族株主の質問は担当役員や部長に集中するので、業績の悪い役員は「生きた心地がしない」と悩んでいた。
中には「総会の2~3日前から食欲が無くなり、胃が悪くなる」とぼやく者もいるほどであった。
 船田部長は銀行の出身者でかなりの資産家だった。酒好きで信平とは気心も合っていたので、よく酒を飲みながらハウジングの経営について議論していたが、基本的な考え方は信平とほとんど変わらなかった。
議論を重ねるうちに船田部長が「俺たちで会社を作ろうか?」と言い出したので、信平は一瞬たじろいだが、「腹案でもあるの?」と聞き返すと「この話は以前からある」と言って、その経緯(いきさつ)を話してくれた。
 その話はハウジングの施工を請け負っている工務店と建材屋が持って来た話で、「小さなハウジング会社が大メーカーと競合して分譲住宅を売っても儲(もう)からない」「優良な住宅を低価格で提供すれば、宣伝費も要らないから利益は確保出来るはずである」、また「これからは増改築市場が拡大するので、それも狙(ねら)い目だ」というもので、信平の考え方とほとんど同じだった。
「建築の専門家がそう言うので間違いないだろう」と、信平は自分の考え方に確信を持つ事が出来た。
船田部長もその話を聞いていたから信平に持ちかけたのだろうと思った。
問題は「優秀なセールスマンの確保」であった。
船田部長は「3人は確保できそうだ」と言ったので、「では話を進めよう」ということになったのである。

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2006.06.23

第7章 脱サラから転落へ

         トヨタディーラーを退職
 昭和56年9月、信平は会社に辞表を提出し、10年間お世話になったトヨタディーラーに別れを告げた。
その頃、村田常務は山口市にある別のトヨタディーラーを買収して、副社長に就任していたが、「麻木、辞任」の話を聞きつけ驚いて電話を掛けてきた。「どうしたの?すぐに来てくれないか」ということだったので、その日の夕方山口に行った。
村田常務は小じんまりした割烹(かっぽう)に案内し酒肴(しゅこう)を取り寄せて、酒をさしながら「藪(やぶ)から棒になんということだ?悩み事があったのなら事前に話をしてくれればよかったのに、水臭いじゃーないか」と残念そうに切り出した。
信平は「相談しなかったことは悪かったが、これは給料や仕事に関する不満ではなく、『同族経営』という企業風土の問題だから、心配掛けたくなかったのだ」と答えて、信平の思いを話した。
彼は「グループ内の何処でもいいから、やりたい仕事があれば言ってくれよ」と言い、「とにかく思いとどまって欲しい」と言うので、信平は「あなたにはこれ以上心配を掛けたくないので、このたびのことは何も言わずに了解して欲しい」と答えて了解を求めた。
村田常務は「信平の覚悟は堅い」と判断し「分かった、すまん」と言って「これからの事で、何か困ったことがあれば相談してくれ」と言ったので、信平は「有難う」と答えて、その後は酒を飲みながら歓談した。
彼が「すまん」と言ったことは何を意味するのかよく分からないが、多分「この会社に信平を誘った」ことへの謝罪の気持ちを込めたものだろうと、信平は勝手に想像していた。
 この時期にはファミレスの方も社長と事業本部長の宍戸専務が、経営戦略についての意見が合わず、さざ波が立っていたようであった。
信平にも宍戸専務から内々に話があり、「独立する時には一緒に来て欲しい」と誘われていたが、信平は差し障りのない返事をしていた。原因はやはり「同族経営」に端を発したものだった。

        新会社を設立 
 昭和56年11月、「有限会社・昭和住建」が資本金300万円でスタートした。
船田社長以下、役員3名、信平は工務・業務担当の常務取締役に、営業担当は南田常務取締役がそれぞれ就任した。
従業員は営業マン4名、建築士1名、業務1名、経理(女子)1名、総勢10名というこ小ぶりの陣容であった。
資本金300万円では立ち上がりの運転資金が無いので、船田社長と役員の個人保証で3千万円を銀行から借り入れた。
スタート当初は社長以下全員がセールスマンになって販売活動を行ったが、「新しい会社」ということで信用力がなかったので苦戦したが、地元工務店の支援も得て徐々にではあったが契約も増えていった。
それから3年ばかりは「鳴かず飛ばず」の状態が続いたが、昭和60年という年は私的な面で悲喜こもごもの1年だった。
 ピアノ教師を目指していた綾子が、桐朋学園短期大学ピアノ科の受験に合格したのである。
涼子は「女の子だからピアノくらいは習わせないと…」といって、幼稚園の頃からレッスンを受けさせていた。信平はあまり乗り気ではなかったが。
徳山に転居したところ、近所に桐朋学園出身の先生がいたので、レッスンをお願いしたのがきっかけで母娘ともども、どうしても「桐朋を目指す」と言い出した。
「桐朋学園」は芸術系の私立学園で、国立の「東京芸大」と肩を並べる有名校であり、難関でもあった。
信平は「そんな才能はないだろう」と思っていたが、「どうしても」というので、仕方なく賛同した。ダメなら地元の大学に行かせればいいやと思ってもいた。
ところが念願の「桐朋」に合格したのだった。短期大学部ではあったが「よくやったな~」と信平は驚くと同時に嬉しかった。
綾子は兄が東京大学に行ったので、自分も東京の大学に行きたいという希望を持って、一生懸命に努力したようだった。
信平にとっては、子供を二人とも東京に遊学させることは経済的に大きな負担ではあったが、自分の進路選択に辛い思いを持っていただけに、子供の願いは叶(かな)えてやりたかったのである。

     日航ジャンボ機墜落事件 
 しかし「好事魔(こうじま)多し」とはよく言ったものだ。
「魔」の方は8月12日の「日航ジャンボ機の墜落事件」である。
そのジャンボ機には涼子の末弟「純ちゃん」がチーフ・パーサーとして搭乗していたのだった。
夕方6時のテレビニュースの時間に、「羽田発、大阪行き日本航空123便のジャンボ機が行方不明になり、群馬県の山中に墜落した模様である…」というテロップが流れた。
涼子が「純ちゃんは大丈夫かな?」と何気(なにげ)なく言ったので、信平は「純ちゃんは国際線ばかりだから関係ないだろう?」と気のない返事をすると、「4月から『専任パ-サー(管理職)』のテストで9月まで国内線に乗ってるらしいよ」と言った時だった。
すでに就職して筑波の国立研究機関に留学していた彰司から「純ちゃんは123便に乗ってるらしいよ」という電話がかかってきたので、二人とも「なに!!?」と言って色めき立ったのである。
彰司はこのニュースが流れると直ぐに船橋にある純ちゃんの家に電話して、妻の清子さんにたずねたところ、「予定では搭乗することになっているの…」という返事だったとのこと。涼子は直ぐに清子さんに電話したがすでに通じなくなっていた。
 それからはテレビの前に釘(くぎ)づけとなり、次々と報道される搭乗者の名前に見入っていたところ、夜の9時頃になって「純」の名前が出たので、涼子の涙は止まらなかった。
その時に、妹の圭子さんから電話で「純ちゃんは可哀想!!」と言って泣きくずれたあとで、「とにかく船橋に行ってみる」と言って、「お姉さんも出来るだけ早く来てね」と告げたようであった。
圭子さんは東京・目黒に住んでいたので、船橋まではさほど遠い距離ではなかった。
涼子は「清子さんが心配だからすぐに行ってね、私も明日は行くから」と言って電話を切った。
涼子はその後すぐに、福岡に住んでいる兄の亮さんと姉の公子さんに連絡したところ、二人ともすでに知っていて、公子さんは「私も明日行く」と答えたが、亮さんは朝日新聞西部本社の通信部長を勤めていたので、この緊急時に私用で休むわけにはいかず、「出来るだけ早く行くから皆で清子さんを励まして上げてくれ」と涙声で話したようだった。
信平は「空港を飛び立って10分そこそこで機体がバラバラになるような飛行機を飛ばすとは何事か?!!」と思うと無性(むしょう)に腹が立ったがすべては後の祭りであった。
遺体は以外に早く1週間ばかり後に確認されたので信平も直ぐに発って、船橋に着いたところに遺体が帰って来た。
その頃には弔問客や報道陣で、家のまわりはごった返していたので、信平たちは何をどうすればいいのか見当もつかずにとまどっていた。
遺体は損傷が激しく、顔の形も無かったので「母には見せないほうがよかろう」ということで、柩(ひつぎ)の蓋は取らないままだった。
混乱の中で葬儀を済ませて、信平たちが帰省したのはそれから1週間後であった。
 二人の幼な子を残して夫に先立たれ、悲嘆に暮れるいとまもなく弔問客の応対に忙殺されながら、取り乱すまいと気丈に振舞(ふるま)う妻・清子さんの姿を見て、信平の心は悲しみと怒りに震える思いであった。
遺族の中でもことさら悲しい思いをしたのは涼子の母である。
今回の昇格テストを受けたのは「同期の中で純が一番だった…」と言って喜んでいたようであるが、一番先にあの世に行ったのだから悔(くや)んでも悔みきれない悲しみがあったのだろう。
「純と代れるものなら代ってやりたかった!」という一言は周囲の人たちの涙を誘っていた。

       大きい仕事が舞い込んだ 
 会社の方は翌年の昭和61年早々に大きな引き合いがあり、社内全員が色めき立ったのだった。
そのプロジェクトは「老人病院」の建設だった。その頃、医療法の改正によって「軽症状の老人を長期に入院させる」ことが認められたので、市街地から離れた山間部にいわゆる「老人病院」を建設する傾向が高まっていた。(「老人病院」という定義はなかった)
その当時の医療法は医師の資格がなくても病院の開設が認められていたので、「病院ブローカー」と言われる人たちが、病院開設を希望している資産家を求めて暗躍していたのである。
信平たちは、そのあたりの事情に疎(うと)かったので、その話に喜んで食いついたのだった。
その頃、昭和住建は大手プレハブメーカーの代理店もやっていた。
プレハブ仕様の病院は建設費も安く工期も短縮できるので、商談はトントン拍子に進んでいった。
プレハブメーカーは「病院の設計は初めて」であったが、宣伝にもなるので是非お願いしたいといって、「必要なら資金面のご相談にも乗りましょう」とまで言い出したので、先方もすっかり信用して「ではお願いしましょう」ということになったのだった。
注文どおりの設計書も出来上がり、「それでは契約を」という段階にきて資金調達の問題がデッドロックに乗り上げてしまった。
プレハブメーカーが紹介した銀行は、病院施設の担保価値と施主の信用状態から、「希望する全額はムリ」だと言い出したのだ。
施主も困って船田社長に「なんとかなりませんか?」と泣きついてきたので、社長も「なんとかしたい」という同じ思いだったから、前に勤めていた銀行と相談して「政府系金融機関の転貸融資」という形で融資を取り付けたのだった。
その他にも、土地買収にまつわる問題や地元の同意など、いくつかの難しい仕事があったので信平も手伝って解決し、ようやく契約に漕ぎつけた。
契約金額は6億5千万円。年商2億円程度に低迷していた昭和住建にとっては、本当に有り難いビジネスチャンスであった。
これで「会社の経営基盤も安定して飛躍のチャンスが来た」とみんなが喜び合ったのである。
山口県土木事務所に建築確認の申請書を提出して用地の整地を始めたところ、思わぬアクシデントに見舞われた。
 病院の敷地は丘の中腹にあった。敷地の上部境界線から掘り起こして地面をならしていくのだが、水がどんどん湧き出して、濁(にご)った水がそばの小川に流れ込んでいったので、地元民から怒鳴(どな)り込まれた。
工事に先立って地元の有力者には一応了解を取り付けておいたのだが、まったく想定外で止むを得ないことであった。
信平は敷地内に大きな溜池を掘って湧水を一旦池に流し込み、土砂を沈殿させて上澄みの水だけを小川に流すことで地元の了解を取り付けた。
その他にもいろいろな問題が続出したが、信平は地元の人たちに対して「工事中はいろいろとご迷惑をかけることと思いますが、病院が完成しますと地元の方々も便利になりますので、それまでの間ご辛抱ください」と説得して廻り、なんとかおさめることが出来た。これは辛い仕事だった。
 そうこうする内に県に提出しておいた建築確認申請書が返ってきたので、いよいよ着工である。
1ヶ月ばかりで基礎工事が完了し、建て方に入ろうとしたところで、「医療施設の開設許可申請書」が返っているかどうかを施主に確認したところ、「まだです」という返事に驚いた。
開設許可申請書は建築確認申請書と同時に施主が県(保健所)に提出し、建築確認書と同じようなスピードで県庁の関係部署を回るので、そんなに遅れることはない筈である。
不審に思った信平は提出先である保健所を訪問して所長に直接聞いてみたところ、まったく意外な回答が返ってきたので、全身が凍(こお)りつくように立ち竦(すく)んでしまった。
保健所長は次のように説明しくれた。
「確かに開設申請書は施主の委任を受けた福田さん(ブローカー)が持ってきたが、あの人は信用できないので書類を徹底的にチェックしたところ、医師や婦長をはじめ重要事項に虚偽の部分が多かったので許可するつもりはありません。申請書はまだ此処にあります」と。
この事を施主に告げると「福田さんを信用して任せていたのが間違いだった」と言って嘆いていたが、「麻木さん、なんとかなりませんか?」と言って信平の顔を見つめていた。
信平は同席していた船田社長に「どうしますか?」と言って顔を向けると「常務に任せるから善処してください」だった。
一任された信平も困惑(こんわく)していたが、基礎工事に多額な資金を投入しているので、ここで投げ出すことは出来ないのだった。
信平は再度保健所長を訪問して、「どうすれば開設許可が出ますか?」と単刀直入(たんとうちょくにゅう)に質問したところ、「提出されている重要事項の内、医師3人と婦長の名前がでたらめです。それと施設に関する基準に疑義がありますので、麻木さんが責任をもって修正し、再申請すれば検討します」。「それともう一つ、施主は整体師だから病院の経営能力はありません。開院後一年間はあなたが病院の事務長になり責任を持って運営してください」という厳しい条件だった。
信平は困惑した。病院なんて「自分とは無縁なものだ」思っていたので、経営まで一任されても困るのだ。信平も見込まれたものである。
このことを施主と社長に報告すると、両人とも「麻木さん頼みます」と異口同音(いくどうおん)に返事したので、信平はしぶしぶながらも承諾せざるを得なかった。
信平は「いつも悪い役廻りばかりが回ってくるな~」と呟(つぶや)いていた。(これも八九三のブタ?)
 病院開設基準の必置(ひつち)規制によると、医師3名、婦長1名の他、看護婦やレントゲン技師などの員数が規定されていたが、医師と婦長については事前に決定して、氏名その他の必要事項を明記しなければならなかった。
信平は施主にも協力を頼んで情報を取りながら、医師と婦長探しに東奔西走(とうほんせいそう)したのであった。それも時間がないのだ。
病院の建設資金は設備の完成検査に合格し「使用許可」が出ないと融資は実行されないのである。昭和住建の命運がかかっているので信平の失敗は許されないのであった。
 
      リクルートに東奔西走
 信平は昼夜の別なく東奔西走を続けた結果、一か月後にようやく目途がついたので、改めて「開設許可申請書」を保健所長に提出し、大至急許可してもらうよう懇請(こんせい)した。
保健所長も事情が分かっていたし、信平の尽力(じんりょく)も認めてくれて、1週間後には開設許可を出してくれたのだった。
信平もなんとか責任を果たして満足だったが思えば危ない橋を渡ったものである。
 医師と婦長のリクルートは困難をきわめた。医師の仕事は「生涯現役」であり、よほどの事情が無い限り「失業者」はいないのである。
それでも病院の勤務医を退職した医師が、何かの都合で休職していることがある。
そういう人がいれば大変好都合であるが、なかなかめぐり合うことは難しいので、どうしても、他の病院に勤務している医師に有利な条件を出して勧誘することになる。
院長は、脳出血で左半身が麻痺(まひ)して休業中の益田産婦人科医(60歳前後)がいたので話を持ち込むと、いい反応を示したが信平は「半身不随(ふずい)ではどうかな~」と思いながら施主に伝えると「背に腹は代えられないので来てもらいたい」ということだった。あとは条件次第である。
このことが後でトラブルの原因になろうとは、このときには想像もしていなかったが。
野田医師(70代半ば)は施主の紹介で、他の病院に勤務している人だった。
この人は条件次第でいろいろと駆け引きをしていたが、施主は条件面で折り合わず「OK」を出していなかった。
遠藤医師は病院から遠かったが、80歳前後でリタイヤーしていたので、「送迎してくれればOK」ということだった。
時間的に切迫しているので信平は施主と話して「条件を絞(しぼ)り込み、最終結論を出して欲しい」と申し出た。
施主は最終条件として個別に金額を提示してくれたので、それぞれに伝えたところ野田医師だけが保留、他の二人は承諾してくれた。
結局、船田社長が野田医師と話し合い、社長の独断で条件をかさ上げして説得したところ、漸く承諾したので、逆に施主を説得して合意させたのであった。
 婦長については、「国立病院の婦長で定年前の看護婦がいる」という情報をつかんだので、早速話を持ち込んだところ、反応はよかったが矢張り条件面で躊躇(ちゅうちょ)して前に進めなかった。信平は「開院早々ではなかなか難しいが、経営が軌道に乗れば考えましょう」ということで承諾を取ることが出来た。
これで漸く当面の必置規制をクリアーして一歩前に進むことが出来たが、まだまだ看護婦や薬剤師他の要員確保に奔走しなければならず、ため息が出るような毎日であった。
セールスマンのリクルートでも苦労したが、彼らには「夢」を語ればほぼ「OK」であったのに対し、医療従事者は「条件次第」だから説得のしようがないのである。
信平は「やっぱり医は算術だ」ということを痛感していた。
 こうして、建設工事が進み完成するまでの3ヶ月間に、開院の準備をほぼ整えることが出来たので、信平はほっと一息つくことができた。
病院の建設工事は初めての経験だったので、どうなることかと心配していたが、業者の全面的な協力によって予定より1ヶ月ばかり遅れて7月末には完工した。
8月に入って直ぐに完成検査が終了し、健康保険の取り扱いも認可されて、待ちに待った病院の開院である。
開院のセレモニーは関係業者や地元有志の協力によって盛大に開催された。信平は事務長として、このパーティの切り盛りにも大童(おおわらわ)であった。
こうした苦労の末に開業に漕ぎつけた病院であったが、1ヶ月も経たない内にさまざまなトラブルが発生していた。

        信平、遂に手を引く 
 まず、国立病院の婦長を迎えたために、ナースの取り扱いをめぐって院長と意見が対立して混乱が始まった。
個人経営の小さな医院で、自分の思いどおりに看護婦を使用してきた院長と、「国立病院」という「親方日の丸」の組織の中で、「看護婦の地位向上」に取り組んできた婦長ではうまくいく道理はないのであるが、信平たちはそこまでは気が回らなかった。
また施主が「出来るだけ高価な薬剤を使用するよう」に薬剤師に指示したところから、薬剤師が不満を訴え、院長も同意したので施主との対立が始まった。
さらに、施主が院長に対して「早く患者を増やして欲しい。近郊の病院では患者が多すぎてベッドが不足しているので、もらい受けに行って欲しい」などと、あからさまに利益追求の主張を始めたので、病院の経営戦略にまで発展していったのであった。
施主は「医療従事者」であるという基本的な認識に欠けており、早く「投下資金」を回収したいという一念しか無かったようだから、おそかれ早かれ突き当たる問題であった。
首脳部が自分の立場で勝手な事ばかり主張すれば、病院の運営がうまくいくはずがないのである。
信平は手の施しようも無く火消し役に廻っていたが、事態はますます悪化していった。
信平は「経営会議」を常設し、施主以下全幹部を参加させて議論をしてもらったが、それぞれが持論を譲(ゆず)らず、事態はますます混乱の様相を呈していったのだった。
 施主は遂に「運営資金をストップする」という強硬手段に出てきたので、信平は先ず施主と院長の歩み寄りを求めて、話し合いを働きかけたが双方とも譲らず効果は現れなかった。
そうこうする内に年末を迎え、従業員のボーナスをどうするかという時期になったが、施主は「こんな状態ではボーナスは払えない」と言って、資金をストップしたのである。
信平はいかに保健所長から依頼を受けたとはいえ、「どうしてオレがこんなに苦労しなければならないのか?」と腹立たしかったが、船田社長は「私も協力するから、ここは我慢(がまん)して欲しい」と言って信平をなだめたのだった。
とは言っても、工事代金の支払いに追われている昭和住建には資金的な余裕は無く、信平も思案にくれていたが、開院から頑張ってくれた従業員の要求を放っておくわけにもいかず、持ち前の義侠心(ぎきょうしん)も手伝ってボーナス資金の調達にまで手を出さざるを得なくなってしまったのである。


        昭和住建、倒産!!
体が不自由な院長は経済的な信用はゼロであるから、銀行からの融資は受けられないので、信平は兄弟や友人に支援を頼んだが、「どうしてお前が資金を調達しなければならないのだ?」と言ってどなられた。当然である。
それでも何とか協力してもらい必要な資金を作って、ささやかながらボーナスを支給することが出来たので信平もほっとして喜んでいた。
ところが、そこでさらなる大事件が発生したのである。昭和61年12月28日、土曜日「御用納め」の午後だった。
 昭和住建の取引先銀行の支店長から病院にいた信平に電話がかかって来た。
「船田社長はどこにいますか?」と上(うわ)ずった声だった。新平は「事務所にいませんか?」と答えると「常務は知らないのですか?」と言って、「今日お昼前に岩国地裁に『自己破産申請書』が提出されたそうです」と言って、あとの言葉を失っていた。
信平にとっても晴天の霹靂(へきれき)である。大きなプロジェクトを完成させて、「これで将来の希望も出てきた」と喜んだ矢先である。
しかも「御用納めの昼前になんという事か?…・」と思うと目の前が真っ暗になっていった。
今朝も社長と会って「今年はよい年だった」と話し合ったばかりではないか。
信平はこのことがどうしても信じられなかったが、すでに裁判所は休みに入っていて確認も出来なかったのである。
 信平は社長を捉(つか)まえることが先決だと思って懸命に社長の所在を探したが遂に分からなかった。
この時はじめて「騙(だま)されたか?」という思いにかられ、悔し涙をおさえるのが精一杯だった。
この情報を知った取引業者から、引っ切り無しに信平の所に苦情の電話が入ってきたが、信平は平謝(ひらあやま)りに謝って「新年の仕事始めまで待ってください」と言うほかはなかった。
仕事を発注したのは信平である。業者が信平を責めるのは当然である。「とにかくお前の責任で払え」と言われたが、信平にはどうする事も出来なかった。
大晦日の午後だった。船田社長から「直ぐ家へ来て欲しい」という電話がかかってきたので、信平はとんで行った。
社長はまず「すまなかった」と言って信平に侘(わび)を入れ、「実は太洋機械に資金を押えられた」と言ったあとで概況を説明してくれた。
 この大洋機械(株)は船舶用の耐酸(たいさん)ポンプやボイラーの缶体(かんたい)を生産している地場の中堅企業であった。
船田社長の妹婿が専務取締役を勤めており、次期社長が確定的だった。
その関係で昭和住建も仕事の面でいくらか協力して貰っていたので付き合いは深かった。
病院の本体工事は発注金額が大きかったために、信用の浅い昭和住建の発注では業者が敬遠するので社長は大洋機械に一括(いっかつ)発注し、二次請けの形で施工業者に発注することにしたのだ。
しかし、それが間違いのもとだった。その当時は造船不況の真っ只中で、中小の造船所は倒産が頻発(ひんぱつ)しており、そのあおりの中で大洋機械の資金繰りは危機的状態にあったようだった。
そのために、昭和住建から支払った工事代金は施工業者の手元には届かず、大洋機械に使い込まれていたのである。
 船田社長が大洋機械からどのように説得されたのか詳(つまび)らかではないが、岩国地裁に自己破産申請書を提出した時に、大洋機械の総務部長が同行していたことから類推(るいすい)すれば、同社が絡(から)んでいたことは明白である。
 信平は船田社長に対して次のような要求を出して承諾させた。
1. 休暇中に主だった施工業者を集めて実態を正直に説明し、工事代金は大洋機械に直接請求させること。
2. 仕事始めの日には従業員にも事態を丁寧(ていねい)に説明し、退職金を幾らかでも払って欲しい。
3. 信平が連帯保証人になっている銀行借入金については、船田社長個人が責任をもって返済すること。
社長はすべてを承諾したが顔色はさ冴えなかった。
それでも信平は病院のボーナス資金として調達したものは信平の責任で処理しなければならなかった。
また涼子に苦労を掛けるなと思うと気が重くなっていた。
 この1年間、信平は昼夜の別なく懸命に働き、社業の発展に寄与したという自負を持っていたが、その報酬がこのありさまでは泣くに泣けないではないか。
信平は、このような状況になった今では、病院の仕事を続けることは出来ないので即刻辞表を提出して病院を去ったのだった。
後ろ髪を引かれるものは何もなく、この時ほど痛切に「人間不信」を感じたことはなかった。

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2006.06.24

第8章 ようやく独立

         何でメシを食うか? 
 昭和62年の新年を迎えたが、信平は茫然自失(ぼうぜんじしつ)の状態で何も手がつかなかった。
昨年1年間は信平の長い生涯のうちで最も懸命に働いた一時期であったが、結果は惨憺(さんたん)たるものであった。人生の有為転変(ういてんぺん)は計り知れないものがあるようだ。
信平は立ち上がれないほど打ちひしがれていたが、生活がかかっているのでいつまでもグズグズ言っているわけにはいかなかった。
しかし、53歳になろうとしている年齢を考えると、再就職というわけにもいかず、事業を起こすにしても「倒産会社の役員」という前歴では誰も相手になってはくれない。
独立するのであれば過去のキャリアを生かすほかないと考えた信平は、経営コンサルタントをやろう」と決心した。
この道に進むためには「どの程度の知識が必要か?」を知るために「中小企業診断士」のトレーニング・マニュアルを取り寄せて勉強したところ、何とかなりそうだと思ったが、試験が大変だった。一次から三次まで通算すると約20日間ばかり必要であり、その費用を考えると浪人の身では経済的にも困難であった。
その国家資格を取ったところで仕事が保証されるわけでもなく、県の診断士協会を通して行政の仕事がいくらか廻ってくるようであるが、その程度の仕事では収入も少なく、経営コンサルタントとしての勉強にもならなかったので信平は敬遠した。
 信平はとにかく名刺でも配らなければ取っ掛かりが出来ないので、「経営コンサルタント」の名刺を知り合いや小規模企業に配って歩いた。
しかし、経営コンサルタントにも何か肩書きが欲しかったので、いろいろと調べてみると「(社)日本経営士会」という通産大臣認可で、経営コンサルタントの自己啓発組織があることが分かった。
この団体は昭和30年に国が認定した唯一の経営コンサルタント・グループで、歴史も古く高いステータスを持っていて、山口県会にも10数人の会員が参加していた。
信平は県会長の小川さんを訪問し、「入会したい」旨を伝えたところ、「入会資格は大学卒、入会試験を受けてください」と言われた。
信平は「大学は出ていません」と答えると「あなたはキャリアがあるようですから、4~5回私のところで財務の研修を受けてください。
それで受験資格が授与されるように取りはからいます」ということで便宜(べんぎ)をはかってもらった。財務の知識は技術系の県会長よりも信平の方が上であった。
入会試験は広島で行われ、10人ばかり集まっていた。試験問題はケーススタディの論文だったが、信平はなんとかこなせて合格したのである。
これで名刺に「社団法人・日本経営士会会員」という肩書きを印刷できると思うと信平は嬉しかった。入会金5万円と年会費3万5千円は痛かったがやむを得ない出費だと思った。
涼子も友人を廻ってクライアントの紹介を頼んで歩いていた。そして「私も働く」といって友人の紹介で歯科医院の受付事務を始めたのだった。「涼子にはまた苦労をかけるな~」と思うと信平の心は暗かった。
  
        損害保険代理店を開業
 綾子はその年の3月に桐朋学園短大・ピアノ科を無事卒業した。あと1年間の専攻科への進級を奨(すす)められていたようだったが、家庭の経済事情で断念し「ヤマハ・ピアノ教室」の教師として就職していた。
「可哀想なことをした」という思いで信平の心は暗かった。
信平はトヨタ・ディーラー時代に「損害保険代理店」を開業できる損害保険協会の資格を取っていたので、損保会社に代理店開設の申し込みに行ったところ、その当時の担当者が支社長になって帰ってきていた。好都合であった。
事は順調に運んで4月1日付けで大蔵省の決裁が終わり、なんとか損保会社の代理店を発足させることが出来た。
しかし、信平の目的は経営コンサルタントである。損害保険の勧誘に没頭(ぼっとう)するわけにはいかなかった。
そういった時期に、涼子の友人である今西紗代さんから依頼が来た。「主人の会社を診(み)て欲しい」というものだった。
 その会社は、バーやキャバレーの経営を足がかりに、コンビニエンス・ストアー7店舗と弁当工場を経営していたが、人材不足で経営管理がうまく機能していないようだった。
信平は今西社長と面談し、業務の内容を聞いたところ「コンビニと弁当工場がうまくいっていないので、分析と指導をお願いしたい」ということだった。
信平はコンビニの店舗と弁当工場を見せてもらって「これではダメだ」と直感した。
まずコンビニの店舗を廻ってみたところ、形だけは一通りの商品が並んでいるので、コンビニらしく見えるのだが、商品を一つ一つ取り出して吟味すると、ほとんどの商品がホコリをかぶっていた。
これは商品が売れない上に棚の整理もやっていないのでホコリがたまるのである。
店長に仕入れ方法を質問してみると、「弁当と日配品(にっぱいひん)以外はほとんどベンダー(*)まかせ」であることが分かった。(*ベンダー=商品の供給業者)
聞くところによると、コンビニの従業員は店長をはじめ、ほとんどがパートタイマーであった。
これでは経営がうまくいくはず筈はない。店に商品を並べて店番を置いておけば「売れる」という時代ではないのだ。
 コンビニ・徳山店のバックヤードにある弁当工場を覗(のぞ)いて見たところ「これは狭い」と思った。
一般食堂の厨房(ちゅうぼう)を改造したような狭いスペースに、食材や厨房用品が所狭(せま)しと雑居しているのだ。これでは作業能率が上がるわけがないし、何よりも非衛生的である。
女性の工場長に聞いてみると「当初は徳山店で売る分だけを造っていたが、今は全店分を作っているので大変です」と話してくれた。「弁当の評判はよい」ということだった。
事務所に行ってみた。ここでは「飲食部門」と「コンビニ部門」を一応別会社で管理しているが、経理も金銭出納も紗代夫人が切り盛りしていたので、どんぶり勘定に近いものであった。
決算書を見ると、水ぶくれしたように大きい数字が並んでいるが、資産勘定には現金・預金が少なく、負債・資本勘定には借入金が多く剰余金(じょうよきん)が少ないという、典型的な赤字体質の企業であった。
 今西社長は昭和50年頃の大衆キャバレーブームに乗って、「中国地区フランチャイズチェーン」を立ち上げ、一攫千金(いっかくせんきん)を手にした立志伝的(りっしでんてき)な人物で、先を見る目にたけた人物だった。
その余勢を駆って昭和51年に「24時間営業」のコンビに・チェーンを立ち上げたのである。
当初は長時間営業の「ナイトショップ」として、文字どおり利便性を売ることで利益を上げて成功を収めていた。
 日本におけるコンビニエンス・ストアの草分けといわれる「セブン・イレブン」が東京都江東区に1号店を開店したのが昭和49年5月であるから、地方にいる今西社長の着眼がいかに早かったかが推察できる。
その後のコンビニ・チェーンがいろいろな問題を抱えながらも繁栄を続けていることは周知のとおりである。
信平がアメリカに行った昭和54年にはアメリカのセブン・イレブンをはじめとするコンビニエンス・ストアはほとんどが衰退して終焉(しゅうえん)を遂(と)げつつあった。
このコンビニも「アメリカで生まれて日本で育った」といわれるように、日本人の勤勉さを示した典型的な事例であろう。
ただこの事例は、日本型の「規制社会」が咲かせた「あだ花」という側面があったことも否定できない。
中小商業者を守るための、いわゆる「大店法(だいてんほう)」が制定され、その規制に保護された商店街は「自己向上心」を疎外(そがい)して、シャッター街に変貌(へんぼう)させ崩壊(ほうかい)させることになったのだから皮肉(ひにく)なものである。
 これは、国の補助金に依存し、顧客を無視した営業時間帯が大きな原因なのである。
「商店街はイレブン・セブンだ」と皮肉られるように、午前11時に店を開けて、夕方7時には閉店するという、まさに顧客無視の「殿様商売」であった。
信平がトヨタ・ディーラーにいる頃、取引先銀行のゴルフコンペにも参加していたが、地元の信用金庫のコンペには商店街の社長連中が大勢参加しているのには驚いた。
話を聞くともなく聞いていると、ほとんど毎日のようにゴルフ場通いをしているようだった。これでは店がうまくいく筈はなかろうと思った。

       人材育成と計数管理が必要 
 信平は今西社長に次のことについて提案した。
1. 店長の養成
 店長は正社員として「適材」を採用し、店長としての職務が果たせるように、教育を徹底する事。
2.商品管理の徹底
 定期的に棚卸(たなおろし)を実施して長期在庫品を返品し、売れ筋商品と交換すること。
 仕入れはベンダーに任せず、店長の責任で発注すること。
3.環境の整備
 店内の清掃と整理整頓に心がけ、お客様が気持ちよく買い物ができる環境を整えること。
4. 売上代金の管理を徹底すること
 売上代金は閉店後、必ず銀行の夜間金庫に全額収納し、店の小口資金に流用しないこと。
5. 弁当工場の拡張について
 他業者への販売も視野に入れて、基本的に見直すこと。

この提案について今西社長は全面的に賛同して信平に協力を求めた。信平の初仕事が決まった一瞬であった。
信平は上記の各項目について「業務マニュアル」を作成して指導に当たり一定の成果を上げることが出来た。
ただ、弁当工場については、立地の問題、能力の問題、レイアウトの問題など、専門的な知識が必要だから、この業界の専門家に相談してもらうことにした。
特に「土地は借地」とし、絶対に購入しない事を念押しした。
その頃の土地価格は「土地バブル」が終わりに近づき高止まりしていた時期であり、銀行も担保に取った土地の処分に困っているケースも散見(さんけん)されていた。
 経営管理については、紗代夫人をはじめ事務担当者を対象に、業務マニュアルを作成して教育を行った。
特に経理については「公私混同」を絶対に避(さ)けるよう厳しく指導した。
組織は「株式会社」であっても多くの小規模企業は「家業」のような経営風土があり、金銭についても公私混同が当然という意識が強かった。

       事態は深刻だ
 信平は「決算書の検証」を行うことを提案して社長の承諾を得たので、早速作業に入った。
直近の決算書の全科目について、実態を検証する「純資産分析」を行うのである。
負債勘定についてはごまかしようがないので、決算書の数字は確かであるが、資産勘定の数字は決算の辻褄(つじつま)合わせのために「意識的か無意識か」は別にして、粉飾(ふんしょく)されていることが多いのである。
税理士は税務申告を行うだけで、そこまでは見てくれない。
資産勘定全科目の検証を終わり決算書と比較してみると、推定したとおりかなりの「含み損」があり、決算書上は資産超過であるが実態は債務超過(赤字)であった。
信平はこの事を今西社長に報告し、決算書を修正するかどうかについて意見を求めたが、社長は「銀行との関係が悪くなっても困るので、暫くの間放置しておいて欲しい」という返事だったので、あえて逆らわず「社長はこの実態を充分認識しておいてください」と言って暫くの間黙認することにした。
その後に関与した小規模企業の実態も大なり小なり同様だということが分かり、信平は「小規模企業の経営も大変だな~」ということを痛感したのである。
その後信平は約1年間にわたって、弁当工場以外の問題について指導に当たり、ほぼ所期の目的を完了したので、今西社長との関係は「時々フォローする」ということで一旦(いったん)打ち切ることにした。
 その後3年ばかり経った頃、再度声がかかったので訪問してみると、経営内容は最悪の状態になっていた。
弁当工場の再建計画については専門家に依頼したのだが、人選に問題があったようで、信平がみても「中途半端(ちゅうとはんぱ)」な工場であった。
最悪の問題は銀行に唆(そその)かされて「用地を購入した」ことだった。これが命取りとなり信平が訪問した時には「既に手遅れ」であった。
土地バブルの崩壊で地価が暴落し、処分すれば損金が確定するので売るに売れず、金利の支払いも滞(とどこお)っているような状態になっていた。
信平は「なんとか再建出来ないか」と銀行に掛け合ってみたがダメだった。
結局、銀行の要請もあったので信平が「整理事務」を行うことになったのであるが、この時ほどいやな思いをしたことはなかった。
 今西夫婦はご両人とも「お人好しで人情家」だったので、これも経営者としての資質に欠けるところかな?と思うと信平は内心忸怩(じくじ)たるものがあった。

        会社もいろいろ、社長もいろいろ 
 三方を海に囲まれた山口県は、瀬戸内のベルト地帯を大企業の工場群と漁港にほとんど占有されていたので、地元の企業が割り込む余裕はなかった。
したがって、地元の中堅企業はカーディーラーか建設業であり、小規模企業はほとんどが大企業の下請けである。
そんな状況下では地場産業が育たず、経営コンサルタントの職場は広がらないので、信平の「クライアント開発」もなかなか楽ではなかったが、信平は「現場が分かるコンサルタント」をセールス・ポイントとして売り込んでいった。
そうこうする内にクライアントも徐々(じょじょ)に増えてきて、信平の仕事も多忙になってきたが、小規模企業はまさに「会社もいろいろ、社長もいろいろ」であった。
信平が関与した業種は前述のコンビニのほか、モータース業(自動車の販売・修理)、鉄工所、温泉旅館、リペア・ビジネスのフランチャイズ・チェーン、セレモニー(冠婚葬祭)の人材派遣業などいろいろな企業があったが、社長といわれる人たちのタイプもいろいろであった。
ただ共通していることは、社長一人が会社を背負っていることだった。
パートナーを作ることがイヤなのか、人材を育成すると「会社を乗っ取られる」と思うのかはよく分からないが、「社員教育」ということになると、ほとんどの社長が「必要性」は認めるものの、非常に消極的(しょうきょくてき)であった。「企業は人なり」という経営理念が理解されていないようだ。
これでは何のために会社組織にしたのか分からない。ただ「税務対策上」だけだとしたら、こんな馬鹿げた話はないのである。
 企業の発展過程は、生業(なりわい)、家業、小規模企業、中小企業、大企業と5段階あるが、生業からスタートした場合は「家業」でとどまることが一番楽であると言われている。
将来の飛躍が期待できる家業であれば思い切って「企業」にシフトすることも必要であるが、「税務上有利だ」とか「格を上げたい」という単純な理由で「会社組織」にすることはあまり意味が無い。
会社にすると「事務所」という非生産的な投資も必要になり、その維持費もバカにならない。
家業で儲(もうか)っていれば、時々は「料亭」や「クラブ」にもいけるのだが、「会社」にするとそんな経費も出なくなる。
ただ、日本では「行政の仕事」を取ろうとすると「株式会社」の肩書きが必要になるのだから不思議な話である。
行政に聞いてみたところ「個人商店では信用性に問題がある」という返答であった。「何故か」については説明がなかったが。
役所は「事業者の信用状態」を「決算書」ではなく「事業の形」で見るという不思議な習慣があるようだ。結局は役人の「責任逃れ」である。
地方では「行政」が「地域No.1企業」であるから、多くの業者はなんとか仕事を取りたいので、とにもかくにも「株式会社」の看板が必要なのである。
そのお陰で信平は「会社の設立」を依頼されたケースも数社あったので、感謝しなければならないのだが。
 日本では、経営コンサルタントも中小企業診断士も、専門分野として、生産、販売、財務などの縦割りに分類されているが、それは間違いだと思う。
現代社会の経済活動は「ボーダレス経済」といわれる国際化の波に洗われて「国境」が無いのである。
したがって、人、モノ、金、情報という経営資源は自由に国境を越えて移動しているのであるから、それらを関連付け出来る能力が必要であると同時に、無限の情報の中から将来を見極める洞察力(どうさつりょく)も必要になってくる。
信平は、化学工業の生産現場と営業経験、カーディーラーの財務、建設業の現場管理など、幅広い実務経験が役立ち、「現場が分かるコンサルタント」を標榜(ひょうぼう)することが出来たのが幸いであった。とりわけ「財務」は重要であった。
これからのビジネスマンに求められる能力は、「財務、IT,英語」が必須科目であり、選択科目として「自分の専門分野」を磨くことだといわれている。
 21世紀は世界がどのように動いていくのか?誰にも分からない「混迷の時代」といわれている中で、経営コンサルタントの使命は「見えない出口」を求めてもがいている「企業経営者」に、「出口の方向」についての経営戦略を提示し、そして導(みちび)くことである、と信平は信じて疑わない。


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2006.06.25

第9章 楽しかった想い出

 昔を振り返り記憶を手繰り寄せていると、苦しかったことはあまり記憶に残っていないが、嬉しかったこと、楽しかったこと、可笑(おか)しかったことなどは「昨日の事」のように次から次へとの思い出すようである。そういうことも少し付け加えておきたい。

       タコ釣りのこと
 小学5年生の頃だったと思う。
父が友人の荒川さんと「タコ釣り」に行くので「信平も一緒に行こう」と誘(さそ)ってくれた。
父と一緒に遊ぶ機会の少ない信平は大喜びで連れて行ってもらった。
 工場の岸壁から小さな伝馬船(てんません)に乗り、荒川さんが岸から500メートルばかり沖合いに出た澪(みお)筋にある漁場に漕ぎ出して行った。
このあたりは水深も浅く岩もないので大きいタコはいない。小さな「マダコとイイダコ」である。
タコ釣りには釣り竿も餌もいらない。白いラッキョウのような形をした焼き物に釣り針が6本埋め込まれている擬餌針(ぎじばり)を太目の釣り糸につないで、そのまま船の上から海底まで届くように落とすのである。
そして、人指し指の先に釣り糸を引っ掛けてゆっくりと上げ下げを繰り返していると、海底で餌を探しているタコが餌と勘違いして「白い仕掛け」に抱きつくので6本の釣り針に引っかかるという単純な漁法である。
ただ、タコはどこにでもいるわけではないので、いそうな場所を探すのは熟練(じゅくれん)が必要になる。
荒川さんは自前の伝馬船を持っているほどだから、釣りはかなりのベテランらしい。
潮加減や風向きを勘案しながら、手馴れた魯(ろ)さばきで船を操(あやつり)ながら、タコがいそうな場所に錨(いかり)をおろした。
信平も荒川さんに要領を教わり釣り糸を垂れたが、なかなか簡単にはいかなかった。
小さな船に乗るのは初めての信平は、釣り糸を垂れながら海面を見つめているうちに、気分が悪くなり吐き気を催(もよお)してきた。
父が「吐きたかったら思い切り吐くんだ。そして、上を向いて寝っころ転がり空を見ていなさい」と言ってくれたので、そのとおりにしていた。
しばらく横になっているうちに気分もよくなったので信平はタコ釣りを再開した。
しばらくすると、指先に「ズシリ」という感じの手ごたえがあったので、あわてた信平は父に「どうすりゃーいいの?!!」と叫んだ。
父は「あわてずに、ゆっくりと糸を手繰(たぐ)って見ろ。タコが引っかかっていたら、そのまま船の中に取り込むのだ」と教えてくれたので、言われるとおりに糸を手繰っていく内に、水中にタコの姿が浮かんできた。
「初の獲物(えもの)だ!!」と思うと、信平の心臓は高鳴り興奮していた。
なんとか船内に取り込みたいと思いながら糸を手繰っていると、獲物が水面に近づいたので思い切って糸を引くと、獲物は水面に上がる一寸手前で針から脱出し信平をあざ笑うかのように、真っ黒な墨(すみ)を吐きながら海底目指して逃げて行った。
「ちきしょう!!」信平の目は悔しさで目が点になっていた。
それを見ていた荒川さんは「水面から上に引き揚げるときは逃げやすいので気をつけて、もっとゆっくり上げるといいよ」と教えてくれた。
荒川さんと父は結構釣っていたようだった。
2時間ばかり経った頃弁当になった。父と荒川さんは瓢箪(ひょうたん)に入れてきた酒を湯飲み茶碗でちびりちびりと飲みはじめたので、信平は母が作ってくれた「わかめの握り飯」をぱくついていた。「麦ご飯」だったがおいしかった。
3時間ばかりの釣りで信平も数匹のタコを釣り、父の収穫と合わせると30匹ばかりのタコが釣り篭に収まっていた。
荒川さんも「今日は大漁だ!」と言って喜んでいたので信平も嬉しかった。
船から上がった信平と父は荒川さんと別かれた後で、父が「風呂に入って帰ろう」と言って工場の浴場に入っていった。
獲物を入れた釣り篭と釣り道具などは浴場脇(わき)の小道に置いていた。
上機嫌(じょうきげん)で風呂から出た信平と父は「釣り篭」の姿が見えないのでびっくり仰天(ぎょうてん)、誰かが持って行ったのだろう。釣り道具などはそのままだった。
父は「工場の中に泥棒がいるとは…」と言って絶句(ぜっく)していた。
 今日一日の楽しい思い出が一度に吹っ飛んで、奈落(ならく)の底に突き落とされたような苦痛に似たものを感じていた。信平は家に帰ってもいやな気持ちは納まらなかった。
母は「今晩のおかずはタコ料理にしようと思っていたので困ったな…・」と言って、「お風呂は家に帰って入ればいいのに…・」と続けて笑っていた。

       受験勉強とおいちょカブ
 これは中学2年生の2学期末試験の時だった。
平田が「今晩は家(うち)で一緒に勉強しようよ」と信平たちを誘ったので、3人の同級生が行くことにした。
夕食を済ませて7時頃平田宅に参集した。平田を入れて4人である。
お姉さんが「お腹がすくだろうから…」と言って、焼き芋と紅茶を出してくれたので、「紅茶を一杯飲んで始めようか」ということで紅茶を飲んでいると、平田が「30分ばかり『おいちょカブ』をやろうよ」と言い出した。
信平たち3人はやったことがないので「じゃー教えてくれよ」と言って始めたのだ。
賭けるわけではなく「マッチ棒」のやり取りだが、だんだん興が乗ってきて「もう一回、もう一回」と言っているうちに時間が経つのを忘れてしまい、気がついた時には既に明け方の6時前だ。信平たちは「アッツ」と叫んだが後の祭りだった。
焼き芋を頬張り紅茶を飲みながら遊んでいるのだから腹もすかないし眠くもならないのだ。さすがに、みんなあわてて我が家へと散っていった。
 家に帰ると母が眠い目をこすりながら「徹夜で頑張ったの?」と言って、「お風呂がまだ熱いので直ぐ入りなさい」と続けた。信平は「遊んでいた」とも言えないので、黙って風呂に入った。
その当時、信平たちの住んでいる地方の家庭の風呂は「五右衛門風呂」と言われる鉄製の釜で、薪や石炭で直接湯を沸(わ)かしていた。
信平の家のまわりには炭鉱が群立していて、石炭は豊富で安かったので多くの家庭は石炭を使っていた。
石炭は「火持ち」がよく、夜寝る前に石炭を追加しておくと翌朝まで充分保温できるのだ。
ただ、釜が熱いので「木製の底敷き」を使わないと熱くて入れない。講談の「弥次、喜多道中記」の失敗談は有名であるが、「底板」を蓋(ふた)と間違えて取って入ると大変で、大火傷(おおやけど)である。
信平は小さい時から馴れているのでその失敗はないが、徹夜の後で入ったので、さすがに睡魔(すいま)には勝てず、いつの間にか風呂の中で眠ってしまったらしい。
どのくらい時間が経ったのか定かではないが、「信平!信平!!」という母の声で「ハッ」と目を覚ますと、浴槽にどっぷりと浸(つ)かったまま口を開けていたらしく、口の中には風呂のお湯がいっぱい入っていたので、大慌(おおあわ)てで飛び上がった。
母は「試験勉強も大切だけど、徹夜はどうなのかね~?」と言って「試験は頑張りなさいよ」と励ましてくれた。
信平は最後まで「おいちょカブで徹夜になった」とは言えなかった。試験の結果は記憶にない。

         うなぎ篭漁
 高校時代の3年間を田舎で過ごした信平は、休日には従兄弟(いとこ)達と山や川でいろいろな遊びに挑戦した。
川釣りや、きのこ取りなど実益を兼ねたものも多かった。
冬休みは雪が降ると「小鳥の罠(わな)」を仕掛けに行ったが、敏感な小鳥を騙(だま)すことは難しかった。
川釣りの対象は鯉(こい),鮒(ふな)、鮠(はや)などであったが、夏休みのメインイベントは「うなぎ籠漁」だ。
これは小さな「簗(やな)」のような仕掛けである。直径10センチ、長さ70センチくらいの円筒形の竹籠を使用するのだが、入り口は「うなぎが1匹」くらい通れるように、そして「うなぎ」が一度中に入ると出られないように「忍び返し」のような蓋が仕掛けられているのである。
餌になる「みみず」を一掴(ひとつかみ)くらい、木綿の袋に入れて逃げられないように包んで籠の中にいれ、蓋を閉めれば準備完了だ。
 夕方の日暮れ時、他人に見られないように「コッソリ」と、うなぎが上って来そうな岩陰に、籠の入口を川下に向けて沈め、小石で籠を覆(おお)って籠が流されないように、うなぎに気づかれないように、偽装するのである。
他人に見つけられると、朝早く盗まれる恐れがあるので注意が必要だった。
空が白々と明るくなる夜明けを待って、うなぎ籠を揚げに行くのである。
うなぎが入っていると「ずっしり」とした手ごたえがあるが、入っていないときは軽くてさっと上げられるので「がっかり」する。しかし、そのときの期待感と醍醐味(だいごみ)は格別であった。
信平はその方法とテクニックを従兄に教わり初体験をした。
漁の実績は初日ゼロ、2日目もゼロ、3日目、4日目、5日目も連続してゼロ。
信平は魚釣りもあまり上手ではないので「お前は仏壇(ぶつだん)を背負(しょ)っているのではないのか?」と言ってひやかされることが多かった。
「それはどういう意味?」と尋(たず)ねると「お釈迦様の教えは『殺生(せっしょう)はいけない』とと説いているので、『仏壇』と言うのは『お釈迦様の代名詞』のようなものだ」と教えてくれた。
信平は「なるほど…」と頷(うなず)いたが、うなぎにも「バカ」にされているようで無性(むしょう)に腹が立った。
従兄たちに対しても恥ずかしかったので「明日獲れなかったらやめる!!」と宣言して最後の挑戦を行った。
その夜は緊張して熟睡(じゅくすい)できなかったが、翌朝は空元気(からげんき)で従兄たちと一緒にうなぎ籠を揚げに行った。
信平は籠の周りの小石を取り除き、いつもの調子で籠を揚げようとすると「重い!」と感じた。籠が動かないのだ。
「どうしたのだろう?」と信平は訝(いぶか)りながら、何とか籠を揚げると中から小さな音が聞こえてきた。信平は期待感で胸が重苦(おもくる)しくなるようだった。
取りあえず従兄たちの家まで持ち帰り、籠の蓋を取って木製の桶(おけ)に中身を移すと、黒くて細長いモノが7匹出てきた。
従兄たちは勿論、側で見ていた伯父や伯母もびっくり仰天(ぎょうてん)!「信平ちゃん凄(すご)いね~」と絶句(ぜっく)していた。
信平は何事が起きたのか?と、しばらくは呆然(ぼうぜん)としていたが、「6日間で7匹か?悪くはなかったな」と現実に戻っていた。楽しい想い出である。

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2006.06.26

エピローグ

         子育てを終えて 
 信平は一男一女の子育てを終わって今は5人の「孫持ち」でもある。
二人とも健康で順調に育ち、今では子育てに大童(おおわらわ)であるが、幸せそうな生活を送っているようだ。
1.彰司のこと
 長男の彰司は記憶力がよく頭の回転も速かった。2~3才の頃には「国連加盟国(87カ国くらいだったと思う)の国旗と国名が印刷されているカレンダーを見て、すべての国名と国旗を暗記していたので驚いた。
生まれた時から母親が働いていたので、他人の手で育てられて寂しい思いもしていただろうと思うが、あまりむずかることもなく一人で遊ぶ習慣を身につけてくれていたので助かった。
信平たち夫婦は「子育ての掟(おきて)」として次のようなことを約束した。
1. 健康と体力増強を第一とする。
2. 何事も自由に行動してよいが、結果は自分の責任とする。
 ただし、法律を犯すことや、人の迷惑になることは絶対にやってはいけない。
3. 「宿題はやったか?」「勉強しなさい」は禁句とし、塾には行かせない。

このことは子供の自主性を高め、自分の判断で積極的に行動するという効果があったようである。
彰司は小学生時代の学業成績は中クラスであったが、体育はいつも最高点をもらっていた。
だから「僕は体育は5だよ」と、周囲の人たちに吹聴(ふいちょう)していたが、それだけが本人の自信につながったのか、他の教科も順調に向上して高校を卒業する時には「オール5」という最高点を取っていたので、信平は驚いて身ぶるいがするようだった。
 小・中学生の頃には正義心も芽生えていたのだろう。友達が「いじめ」に会っていると、相手がどんなに悪い子でも必ず説得して止めさせようとしていたようである。
ある日の夕食時であった。彰司はいきなり「今日は学校で悪いやつと喧嘩(けんか)して勝ったよ!!」とおおいばりで話してくれた。小学2年生のときである。
友人をいじめていた悪童(あくどう)に対して「イジメはやめろ!」と言って制止したところ、逆に殴(なぐ)りかかって来たので、足に噛み付いて「参った!」と言うまで放さなかったそうである。
こうして友人の信頼を高めていったので、人間関係に関しても自信をつけたようだった。
 中学生になった頃だった。「塾に行きたい」と言い出したので、信平は「子供の時は泥んこになって遊びなさいと言っているだろう?塾なんか行かなくていいよ」と言うと彰司は「お父さんはそう言うけど、友達がみんな塾に行ってるので遊べないよ」と言って反論したのだ。
信平も「それもそうだな」と言って、「それじゃー好きにしなさい」ということで収(おさ)まり、彰司は塾に通うようになった。
ところが1ヶ月ばかり経った頃「塾に行ってもつまらないのでやめる」と言い出した。
「そうだろう?だから言わんこっちゃーないよ」と合い槌(づち)を打ったところ、「英検の通信教育を受けたいので、ラジカセを買って欲しい」と注文をつけてきた。
「それはいい事だが、目標は?」と聞くと「中学を卒業するまでに2級を取る」と約束したので、「頑張れよ」と言ってラジカセを買い与えた。
信平は内心では「ムリだろうな?」と思っていたが、結果は中学校卒業前の2月に見事、英検2級に合格したので信平は感動して「よくやったな~」と褒(ほ)めてやった。
合格したことが嬉しかったのは勿論であるが、それにもまして嬉しかったのは「自分で高い目標を掲げ、それを達成するために努力した」ことである。
中学校に入学して始めたバスケットボールは、大学を卒業するまで続けたようだった。この事も信平には嬉しかった。
 高校3年生を迎える頃だった。「大学受験、第1志望はどこだ?」と信平が尋ねると、「東京大学」と答えたのでびっくりして「滑り止めは?」と聞くと「ない」と言って平然としていた。
信平は涼子に「お前知っていたのか?」と尋ねると、「初耳です」と答えて「冗談でしょう」と言ったので、彰司の顔を窺(うかが)うと「冗談じゃーないよ」と言って真顔になっていた。
信平は「最初の受験だから彰司の希望通りにしたらいいが、来年は滑り止めも考えろよ」と言ったところ「来年の受験はないよ」と言って涼しい顔をしているので二の句はつげなかった。
涼子は高校の担任の先生とテニスを通して知り合っていたので、父兄との三者面談の席で「東大受験は止めさせてください」といって懇願(こんがん)したらしいが、「子供がその気になって頑張っているのに、親が水をさしてどうするんですか、『この子はムリかな?』と思う親でも『受けるだけは受けさせてください』と言うのに」と言って取り合ってくれなかったそうだ。信平は「この先生は立派だな~」と感心した。
信平夫婦はあきらめて、一回だけは自由に受験させようということにした。
ところが彰司は東京大学理科一類に現役で合格したのだった。「よく頑張った!」と信平夫婦は賞嘆(しょうたん)するのみであった。
「東大合格者全氏名」を掲載した週刊誌を読んで驚いた。「合格者の家庭事情」として、「父親の年収800万円以上、3DKアパートに住んでいる人はいない」というのである。
当時、信平の年収は約500万円、3DKアパート(社宅)の住人であり、勿論、塾にも行っていないし、家庭教師もつけていなかった。このような例外のケースこそ報道して欲しかった。
 東京大学・工学部を卒業した彰司は金属・石油関係の大企業に就職したが、理由は「バスケのコーチが推薦してくれた」というだけのことだった。
兄弟の中には「これでいいの?」と言って疑問を呈する者もいたが、信平は「自分で選んだのだから」と言って取り合わなかった。
信平は涼子と誓った「子育ての掟」を忘れてはいなかったのである。
その後、彰司は5年足らずで退職し、外資系の現地法人に転職して今でも勤務している。
その会社は大企業ではないが、水を得た魚のように「環(かん)太平洋を股(また)に掛けて」活躍しているようだ。
信平が望んで果たせなかった「国際的ビジネスマン」の道を歩(あゆ)んでいるのである。
その彰司も今では3人の子の親として子育てに熱中している。

2.綾子のこと
 綾子が名古屋で生まれて2年足らずで東京支店に転勤し市川市(千葉県)に転居したので、名古屋の思い出はないようだが、愛くるしい活発(かっぱつ)な子供だった。
この頃は涼子も仕事を辞(や)めていたので、寂しい思いをさせなくて済んだのであるが、近所の保育園に通っていた。
会社のアパートには同年代の家族が多かったので、綾子も遊び友達がいっぱいいて楽しそうだった。
近所に涼子の従姉が住んでいて、「ピアノを買い換えるので、綾子ちゃんに買ってもらえないだろうか?」と言ってきた。
人のいい涼子は「私も弾きたいので安くしてね」と言って引き取ったのだった。
涼子の妹の圭子さんは「あの人は口が上手だから騙(だま)されないように」といって忠告してくれたが、時すでに遅しであった。
信平は「綾子にはまだ早いだろう」と言ってみたが、どうせ必要になるのだから「まあ、いいか」と思って納得した。
そのお陰で綾子はピアノの道を選択して一直線に突き進むことになるのだったが、その当時はまだ信平も涼子も「どうせ趣味程度だろう」くらいにしか受け止めていなかった。
時々従姉がやってきて綾子に教えてくれていたが、綾子もまだ小さかったのでお遊び程度のものだった。
 徳山に転居して小学校に入学する少し前だったと思うが、社宅の近所に音大を卒業したばかりのお嬢さんが、「自宅で教えてあげよう」と言ってくれたので、綾子もその気になって通っていた。
小学校の高学年になり、ピアノの腕もいくらか上がっていたので、若い先生から「これ以上は私ではムリだから、いい先生を紹介しましょう」と言って「桐朋学園出身」の先生を紹介してもらった。
中学生に進級して間もない頃だった。その先生から「将来、ピアノの道を真剣に考えているのなら、この際『グランドピアノ』に変えるべきでしょう…」というアドバイスを受けた。
綾子も涼子も積極的に「買い替え」を主張したので、信平は乗り気ではなかったが激論の末、不承不承(ふしょうぶしょう)に折り合った。
ところが「3DKのアパート」では置き場がないのである。綾子は「勉強部屋に入れて、ピアノの下で寝る」と言い出したので信平も「その覚悟なら…」と思って賛成した。
 中学2年生の時に、信平がベッドタウンにマイホームを求めて転居したために、先生の所まで20キロメートルくらいの遠距離になったので、涼子が軽自動車で送迎していた。
高校生になると綾子の腕もかなり上達したようだった。
その先生の恩師である桐朋学園の教授が、故郷の広島で開いているピアノ教室の中で、成績優秀な生徒を10人ばかり選抜して、月にに1~2回自宅で特別レッスンを行っていた。
綾子もその入門のオーディションを受けるように推薦されたので、「自信がない」と言いながら受験したところ幸いにも合格したのだった。「この子はついているな~」と思った。
このチャンスをモノにした綾子は、「桐朋学園」目指して一直線に突き進んでいったのだった。
 綾子の学業成績は上の下くらいで目立たないところにいたようであるが、音楽と体育はいつもよかった。
中学生の時に始めたテニスは大学を卒業するまで続けていた。結構努力家だったようである。
昭和60年2月、桐朋学園の受験であるが、お世話になった教授の紹介で受験日の1ヶ月前頃から上京して「聴音(ちょうおん)」と「声楽」のレッスンを受けさせられた。
ワンレッスン(1時間)1万円、毎日2万円の出費はバカにならなかった。
その間の宿舎は目黒に住んでいた圭子さん一家の所に転がり込んでお世話になったので大助かりだった。
これが「ホテル住まいだったら」と思うと、ぞっとする信平たちであった。
「音大はお金がかかる」と聞いてはいたが、こんなところにも大金が必要だとは思ってもみなかったのである。
無事に試験が終わり、綾子は教授の所にお礼方々挨拶に伺ったところ、「ペーパーテストは完璧(かんぺき)」だったと言われて、「どういう意味だろう?」と笑いながら心配していたが、合格通知を受け取った時には大喜びであった。
信平たちは「綾子もよく頑張ってくれたものだ」と感心し、「おめでとう」と言って祝ってやった。
昭和62年3月、桐朋学園短期大学部ピアノ科を卒業した綾子は、教授の紹介でヤマハ・ピアノ教室のインストラクターとしてスタートしたが、自分自身のグレードもどんどん上げていき、短期間で「インストラクターの評価委員」の資格を取った。やっぱり頑張り屋だったのだ。
 平成4年3月、綾子は「テニスが取り持つ縁」で稲村夏樹君と華燭の典を挙げて結婚生活に入った。
それから14年有余の歳月が流れ、綾子たちは二人の男の子に恵まれて、今は子育てに大童である。
夏樹君は慶応大学・修士課程を卒業して国内の自動車メーカーに勤務するエンジニアーであるが、平成15年4月から4年間の予定で、アメリカ・デトロイトに転勤した。
そのお陰で信平たちは、長年住みなれた山口県の我が家を残して、綾子たちのマンションを管理するために神奈川県に転居したのであった。
長年苦労しながら、漸く住宅ローンを完済した直後のことだったから、信平たちの心は穏やかではなかった。
これも「八九三のブタ」の所為(せい)か?
しかし、子供たちが困っているのをみると、「なんとか協力してやるのが親の務めでは?」と思い直して決断したのであった。
それから2年あまり経った昨年(平成17年)の6月、綾子一家が生活しているデトロイトを訪問して20日ばかり生活をともにしたが、孫たちも順調に、いや、それ以上に成長していて、現地の生活にすっかり溶(と)けこんでいる姿を見て安心した。
3年前の7月だった。綾子は子供たちの学校の関係もあって、夏樹君に遅れて日本を発ったのだが、成田空港まで見送りに行き、綾子が二人のちびっ子の手を引いて「不安げな様子」も見せずに搭乗口に入って行く姿を見た時、信平は「たくましい母親をやってるな~」と感心するとともに安心した。

 信平は「これで子育ても終わった」事を痛感した。そして、子供たちが二人とも「親を超えている」事に大きな喜びを感じるのであった。

        孫たちとのふれあい
 信平には5人の孫がいる。息子の麻木家に女(9歳)・男(7歳)・女(5歳)の3人と娘の稲村家に男2人(10歳と7歳)である。
孫はみんな可愛いが、親密の度合いが濃いのはどうしても「娘の子」、つまり「外孫(そとまご)」である。
娘は実家で出産するので「おぎゃー」と言って生まれたときから2ヶ月ばかりは一緒に生活し、年末年始や夏休みには実家で過ごすことが多いのだから仕方がないだろうと思う。
 一方、「息子の子:内孫(うちまご)」は嫁の実家で生まれて、そこで過ごすことが多いのだから、自然にそちらと親密度が高くなるのも当然である。
特に嫁の実家は沖縄だから、毎年夏休みになると、ほとんど沖縄で過ごすことになる。
きれいな海、澄んだ空の下、素晴らしい環境で過ごせる孫たちは幸せだと思う。
その代わり信平夫婦は、5月の連休には孫たちを招待して一緒に遊び、秋の運動会には出かけて行って、孫たちの応援をすることにしている。
これも神奈川県に転居したお陰だと思っている。彰司一家はさいたま市に住んでいるから比較的楽に行き来できるのである。
孫たちは、みんな順調に素直に成長していて、顔を見ると「ジジ!!」「ババ!!」といって、飛びついてきて話しかけ、「げんきでね」と言って労(いた)わってくれるので、二人とも目尻を下げて喜んでいる。
そして、みんなが、それぞれの個性を持っているので素晴らしいと思うし、信平はこれからも、孫たちの成長を見守りながら「ともだち」として付き合っていけたら最高だと思っている。

        母たちのこと
 稿を読み返してみると「母」について何も書いていない事に気がついた。
いつの場合でも、母親は裏方で苦労ばかりしている存在なのだろう。
信平の母も涼子の母も、戦中、戦後の混乱期に亭主が「ムリ」して体調を壊(こわ)したために、「子育てに苦労した」という共通点をもっていた。
信平の母・あさ子は比較的裕福な商家の次女(五男四女)として育ち、多少我がままなところもあったが、おおらかさと優しさは人並み以上であったようだ。
終戦後「喘息(ぜんそく)」が持病となり思うように働けなかったが、それでも「馴れないおでん屋稼業」で一生懸命に頑張ってくれていた。
子供たちが成人してからは、子供の世話になることの方が多かったが。
信平は遠くに離れていて思うような世話も出来なかったが、3人の妹たちは同じ市内に住んでいたので、それぞれの連れ合いを含めて、みんなで協力しながら最後まで面倒を見てくれていた。感謝している。
平成16年3月14日、老衰のため永眠した。享年92歳だった。
 涼子の母・多喜子は開業医の息女で、娘時代は「乳母(おんば)日傘(ひがさ)」で育てられ、およそ「苦労」という二文字は知らずに育ったようであるが、終戦後は自分の身を削(けず)るような思いで、5人の子供たちを育て上げたそうである。
信平たち親子もずいぶんとお世話になったものだった。
平成5年12月24日、老衰のため永眠した。享年94歳だった。
 
        忘れ得ぬことども
 信平は今、70年を越える人生を振り返るとき、いろいろな時代の光景が走馬灯(そうまとう)のように目まぐるしく浮かんでは消え、消えては浮かんでくるのであるが、どんな時代でも「人は人として、人間として」生きなければならないという教訓を学んだような気がしている。
「人生の禍福(かふく)は糾(あざな)える縄のごとし」といわれるように、人間の幸・不幸は撚(よ)り合わせた縄のように、くるくると廻っているのである。
信平も幾度となく「縄の裏目」を経験し、人間不信におちいって「もうダメか?」という場面も幾度か経験したが、その切羽詰(せっぱつま)った時には必ず「誰か」が救いの手を差し延べてくれたのだった。
その方たちには、いくら感謝しても感謝しきれるものではないが、あらためて「感謝の気持ち」を表しておきたい。
今では「人生ってまんざら捨てたものではないな~」と思うようになったのである。
 その反面信平は、現在の日本社会に蔓延(はびこ)っている「拝金主義」は到底容認できるものではないとも思っている。
政治家や官僚はいうに及ばず、大企業経営者・教育者・警察官など、日本の指導的立場にある人たちの「金にまつわる不祥事件」が際限なく広がっており、「金のためには親でも殺す、子でも殺す」という風潮はおぞましい限りである。
日本はいつの頃からこのような社会になったのか?信平にはよく分からないが、少なくとも「国が貧乏」であった頃は「こんな社会」ではなかったと思う。
 人縁・地縁・血縁を大切にしながら、乏(とぼ)しい中で分(わか)ち合い、庇(かば)いあい、助け合い、必死になって生きてきた時代がなつかしく思い出されるのである。
「衣食足りて礼節を知る」という金言があったが、今では空文と化しているようだ。
戦後の高度経済成長の中で、物質的には世界でも1~2を競う「豊かな国」になったのであるが、それでも国民の多くは未だに「金、金、金、金…・」と、金を追い求めて「餓鬼道(がきどう)」に迷い込んでいるようだ。
それだけではない。「セクハラ」に始まる「女性」に対する冒涜(ぼうとく)行為や、累増(るいぞう)する「ドメスチック・バイオレンス」、「幼児や弱者に対するイジメ・殺傷」などなど、俗にいう「欲ボケ」「色ボケ」の世界に成り果てており、まさに「国豊かにして、人みな堕落(お)つ」である。「一億総懺悔(そうざんげ)」が必要であろう。
このように堕落した社会を作り出した責任の一端は「マスメディア」にあることも否定できない。
特に「テレビ」の責任は重大である。「視聴率」という得体の知れない数値を金科玉条(きんかぎょくじょう)として、視聴者におもねる低俗番組を乱造し、「サスペンス劇場」では毎日「何人の死傷者」を輩出(はいしゅつ)していることか?。
このことは「社会の荒廃」と無縁ではなかろう。猛省(もうせい)をうながしたい。
「テレビ放送」が誕生して間もない頃、大宅荘一氏が「テレビは国民を総白痴化(そうはくちか)する」と予見されたが、今まさに現実のものとなっている。
 信平にとって「忘れ得ないこと」は前述のとおり数多くあるが「最も忘れられないこと」否、「忘れてはならないこと」は「妻・涼子の献身的な協力と努力」である。心から感謝している。
余暇が増えた今では、口論も絶え間がないくらいやっているが、涼子の不満の原因は「慰謝料が取れないので離婚も出来ない」という事らしい。
信平はそれで生涯を共に暮らせるのなら、「貧乏も悪くはないものだな」と思ってあきらめている昨今である。
その夫婦が人生の最後に願うことは、健康に留意し、周囲の人たちに迷惑を掛けないように生き、そして「静かに逝くこと」である。
しかし「このように荒廃した社会」で未来を生きていく子供や孫たちのことを思うとき、「このままでは死んでも死に切れないな~」と考え込むのであった。

 願わくば、全国民の叡智(えいち)で、この悪しき輪廻(りんね)を断ち切り「人に優しい社会、礼節を知る社会」を創(つく)って欲しいものである。

           完 (2006年6月)

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