「八九三(はくさん)のブタ」盛衰記
(目 次)
プロローグ
麻木信平のプロフィール
第1章 軍国少年期
第2章 アプレゲール世代
第3章 青春時代
第4章 新入社員時代
第5章 転勤族の子育て
第6章 サラリーマンの反乱
第7章 脱サラから転落へ
第8章 ようやく独立
第9章 楽しかった想い出
エ ピ ロ ー グ
プ ロ ロ ー グ
「八九三(はくさん)のブタ」とは俗にいう「おいちょカブの目」で合計すると二〇、下一桁がゼロの目は「ブタ」と呼ばれる一番弱い目である。
「おいちょカブ」がいつの頃から庶民の遊びとして定着したのか定かではないが、江戸時代の書物には出てくるようだから、その辺りから始まったのであろう。
この遊びは「花札」といわれるカードを使い、数人で遊ぶ一種の賭博(とばく)である。
勝ち・負けは手に入れた2枚または3枚の札の数を合計し、下一けたの数が「九」であれば最高の目で一番強く、下にいくほど弱くなり、ゼロでは絶対に勝つ可能性はないという遊びである。
ただし、「親のくっぴん(九一)」「子のしっぴん(四一)」という特権もあるようだが、これは一種のグランドルールのようなものであるといわれている。
どういういわれかは分からないが、同じ「ブタ」でも「八九三のブタ」は救いようのない「最悪の目」として忌(い)み嫌われ、「ヤクザ(八九三)=救いようがない遊び人」の語源になったとも伝えられている。
なぜ、このような話を持ち出したのか?それは、この物語の主人公である「麻木信平(あさきしんぺい)」の誕生日が「昭和9年3月8日」、つまり「八・九・三」という数字が見事に並んでおり、信平の人生を振り返ると、どうしようもなく「ツキ」に見放されたと思われる場面が再三出て来るからである。
その信平がモノ心ついた頃から、戦時体制が強化される中で軍国教育を矛盾(むじゅん)も感じずに受け入れた少年時代、学制改革のはざまで戸惑いながら青年期を迎えるのであるが、敗戦の傷跡も生々しく荒廃した社会で「いかに生きるべきか?」と悩みながらも、解決策が見出せないままに現実の社会に放り出されて、復興期、混乱期、成長期を経てバブルの崩壊から低成長時代へと、さまざまな有為転変(ういてんぺん)の中でようやく古希を迎えた今日、二人の子供(一男一女)の成長と5人の幼い孫たちとの付き合いに「無常の幸せ」を感じ、そして健康な体に恵まれて微力ながらも余暇を社会奉仕に精進できる喜びを子や孫たちに伝えておきたいという思いと併せて、同じように「ツキに見放された人生?」に「これも天命か?」という絶望感を持ち、肉親や世間様を恨みながら、悶々(もんもん)とした毎日を過ごしている方々にもご紹介して、束の間の癒(い)やしでも感じていただければ幸いであると思いながら筆を起こした。
また、時あたかも「戦後60年」を経過し、世相は「戦前回帰」を願望するかのように右傾化の方向へと軸足を向けていく様相を呈し始めている。
戦前生まれの信平たちがたどってきた苦難の道程(みちのり)を語り、若い人たちの将来に誤りのない選択がなされることを願望しつつ。
麻木信平のプロフィール
麻木信平は昭和9年3月8日、山口県西部の小さな町で「麻木家の長男」として生まれた。
当時その町にはセメント工場と化学工場のほかに小さな「炭鉱」が群立(ぐんりつ)し、かなり活気のある地域であったようだ。
父はその町の化学工場に勤務する平凡な技術者であり、母は田舎町の商家・畳屋の出自(しゅつじ)で専業主婦。
父の母親、つまり信平の祖母の話によれば「麻木家」は祖母の実家であり、そのルーツは芸州・吉田(現在の広島県安芸高田市)であった。
代々毛利家の家臣であったが、関が原の戦いで中国地方の太守として君臨していた毛利公は豊臣家を支援した。
しかし、その敗北により防長二州に封じ込められた、いわゆる「国替え」に際して「番方=警護職」として選抜され、長門(ながと)国・長府(ちょうふ:現在は下関市)に移り住んだ「士族の家柄」だったそうである。
その麻木家が明治維新の動乱期に、男全員が戦死して家督(かとく)を相続する者がいなくなったために、祖母の次男であった父が麻木家と養子縁組を行って相続者になったのである。
その当時、吉田村(現在下関市吉田)に相当の田地田畑を所有していたようであるが、信平の父は「田舎(いなか)で百姓をやる気はない!」といって、それを「墓守(はかもり)」を条件に当時の小作人(こさくにん:農業従事者)に全部無償で譲渡し、相続したものは20枚を超える位牌(いはい)だけであったとのこと。
「さすが侍(さむらい)の子、いさぎよい!!」で済めばよいのだが・・・・。
ということで、信平は武家育ちで且つ曹洞宗(そうとうしゅう)の修道女であった祖母から事あるごとに「士族の誇りと人の道」について受講する羽目になり、その影響からか人並み以上の正義心や潔癖性(けっぺきせい)と些事(さじ)にこだわらない鷹揚(おうよう)な性格に益々磨きがかかってきたようである。
このことが信平の生きざまにも影響を与え、何度か経験した人生の転機において「詰めの甘さとツキのなさ」で、ウラ目に出たことも少なくはなかった。
昭和15年4月、信平は尋常(じんじょう)小学校に入学したが、2学年に進級する翌年から「義務教育8年制」へと学制が変わり「国民学校」と改称されて、低学年から戦時教育へと突入していくのである。
したがって教科書が変更されるのであるが、どういうわけか(多分財政難だろう)初年度は1年生用と2年生用だけが変更になった。
しかも、準備不足のためだと思うが生徒の手に渡ったのは2学期からであった。
当然のことながら翌年は3年生になるのだが、この年は3年生用と4年生用の教科書が変更されるので、またまた1学期は教科書なしである。
昭和16年12月8日(小学2年生のとき)、真珠湾(しんじゅわん)攻撃に端を発した太平洋戦争が勃発(ぼっぱつ)し、4年生になった昭和18年に入ると戦況の悪化によって、国民学校のみならずすべての学校は勉強どころではなくなっていた。
中学生以上の学生は昭和13年4月に公布された国家総動員法によって、男女を問わずいわゆる「学徒動員」がかけられて軍需工場をはじめ人手が不足する事業場に多数送り込まれていった。
もちろん、旧制中学3年生以上は「各種軍学校」への進学が奨励されていたので多くの少年が志望して「職業軍人」への道を選択し、「特攻隊」となって戦死していった者も少なくはなかった。
そして都会の小学生はほとんどが「集団疎開(そかい)」で、友達とも別れ別れになって田舎に散っていった。
信平たち田舎の小学生は集団疎開まではしなくて済んだが、学校では「食糧増産」のために授業時間のほとんどが農作業となり、農繁期には近所の農家に「勤労奉仕」に行かされたので勉強にはならなかった。
そして太平洋戦争が終わった昭和20年は小学6年生の夏であったがその翌年まで学制は変わらず、従って「旧制中学」の入学試験を受けて「勉強していない中学生」になった。
そこでまた「運命のいたずらか?」、なんとその翌年から再度の学制大改革である。この改革はいくらかの微調整はあったが、骨格は現在も継続している「6・3・3・4制」である。
つまり、小学校6年、中学校3年、高等学校3年、大学4年という学校制度である。
国民学校は再度小学校に、新制中学校が新設されて旧制中学校は新制高等学校に、旧制高等学校や専門学校は新制大学(旧制大学はそのまま大学)に変更された。
困ったのは「旧制中学校」に入学した信平たちとその一級上の中学生だ。中学校に入学したものの、その学校は高等学校となってしまったのである。
中学生でもなく高校生でもないという中途半端な存在となった揚句(あげく)に決まった呼称は「高等学校併設中学生」である。高校生になるまでの「間借り」のようなものだった。
学制改革では中学生まで義務教育になったが信平たちは県立中学校に志願して入学したので、当初は義務教育の対象にはならず、授業料の納付が義務付けられていたし給食もなかった。
さすがに授業料の納付は途中から免除されたが給食は最後まで受けられなかった。
そのほかどのような差別が行われたのか?このことについては後で詳述するが、まず「男女共学」ではないということ、第2に高校2年生になるまで「下級生がいない」ということだ。
「こんな他愛(たあい)もない・・・」と思われるかも知れないが、思春期の男の子にとってこれは重大事件であった。
このように小学校に入学すれば2年生から学制が変わり、中学校に入学すればまたまた翌年から学制が変わるということは並みの出来事ではない。
このことは信平一人だけの問題ではないのではあるが、信平にとっては「八九三の祟(たた)り?」とひがみたくもなるのだった。
というのも信平が中学3年生の夏であったが、信平の高校進学を前にして父が突然難病に見舞われて永年勤めた会社を退職せざるを得なくなったのである。
これを転機に信平の麻木一家(両親と妹3人)は生活面で塗炭(とたん)の苦しみを味わう境遇に追い込まれていったのであった。
それでも信平はなんとか高校に進学したが問題は「大学受験」である。
父の収入が激減し、母も働きたいと言い出したが、失業者が溢れているご時世(じせい)に専業主婦が働こうにも職場があるわけはない。
住む場所も社宅を出たが適当な貸家もないので、田舎の母の実家近くに小さな借家を見つけてもらって移り住むことになった。
母の実家近くに住んでおれば、父も母も畳屋の仕事を手伝っていくらかの収入を得られるだろうし、食料もいくらかは援助できるだろうという母方の祖母の気配りからであった。
そんな家計の中から大学進学の学費が捻出できるはずはないのだが、たいした学歴もなく大企業で苦労した父には「何とか大学に行ってほしい」という願望があった。
しかし家計のやりくりに苦労する母の姿を見ていると、麻木家の長男として「なんとか母を助けたい」という思いもつのり、これも「八九三のブタ」のせいか?と落ち込み思い悩む一時期であった。
さらに困った問題は、九州の製鉄工場の幹部であった父方の伯父(父の姉婿)は父と同意見で「大学は出たけれど・・・という、この就職難の時代に高校卒ではよい就職先はないのでどうしても大学に行け」という。
それも「並みの新制大学ではダメだ、九州工大に行け」という。その理由は二つあった。
一つは、九州工大は前身が「明治専門学校」という旧制の工業専門学校であり、主として八幡製鉄所(現在の新日鉄)の技術者を養成する学校であったので、ここを卒業すれば伯父が責任をもって採用してやるというのだ。
二つ目の理由は伯父の住まいが九州工大の近所にあるから、伯父の家に下宿すれば生活の面倒も見てやれるというのであった。
しかし信平は工場務めの父の姿を見ていたので、工場の技術屋としてほこりっぽい仕事をする気にはなれなかった。
一方、母方の伯父は田舎の小学校高等科を出てすぐに家業の「畳職人」からたたき上げ、下関市(山口県で最大の都市」に畳会社を興した苦労人だから「学歴無用論者」である。
「苦しい家計の中では高校にも行く必要はない」と言い張る人物であった。
したがって父母の意見も合うはずがない。
当時、信平の第一志望は外交官、第二志望がジャーナリストであったが、それを実現するためにはそれなりのレベルの大学に入学しなければならなかった。
信平は悩みに悩んでいつまでも進路を決めかねていたが、昭和26年の夏休みも終わり、あっという間に受験期の年末を迎えた。
昭和22年度から旧制高等専門学校の入試に適用されていた「進学適性検査」が昭和24年度から新制国公立大学受験にも適用されることになり、全国一律に実施される「適性検査」を受けることが義務付けられたのだった。(一時中断されたが現在は共通一次試験からセンター試験へと名称を変えて継続中)
信平は国公立大学への進学を断念するためと、東京で受験できるという魅力に惹(ひ)かれて、12月に実施される適性検査の当日に入社試験を行うという企業の入社試験を受験することにした。
その企業ははからずも父が永年勤務していた化学工業会社の入社試験であり、かなりの難関であったが、「どうしても就職したい」とは思っていなかった信平は平常心で受験した結果、その難関を突破して合格し、本社採用の正社員として入社できることになった。
当時は終戦直後の「黒いダイヤ=石炭」から「三白景気」といわれる時代に変わり、化学(硫安)、セメント、砂糖を造る会社はまさに「我が世の春」を謳歌(おうが)し、入社希望者も殺到して物凄い競争率であった。
信平は周囲の人たちの祝福と羨望(せんぼう)の中で、とまどいながらも「就職への道」を選択し18歳で社会人としてのスタートを切ったのである。
それから五十年有余、サラリ-マンからビジネスマンへと紆余曲折(うよきょくせつ)を重ねながら、古希を迎えるまで働き続けることができたことを、今では後悔していない。
信平のその後の軌跡(きせき)は本文に詳述するので熟読玩味(じゅくどくがんみ)をお願いする次第である。


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